【 超解説 】ホラーの金字塔「 シャイニング 」が伝説の映画になった理由

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もしあなたがホラー映画の熱心なファンなら、突然大きな音がしてモンスターや殺人鬼が飛び出すような虚仮威(こけおどし)演出には辟易しているのではないだろうか。

思いがけないところで突然大きな音がしたら、誰でも驚くに決まっている。

だがそれは真のホラー映画好きが求める怖さではないように思う。

では、そのような虚仮威(こけおどし)とは違う本当の怖さとは何なのか? 

それを1本の映画を通じて考えてみよう。

スタンリー・キューブリック監督の「 シャイニング 」だ。

すでに製作から40年以上が経つが、今なおホラー映画の世界に絶大な影響を与えてやまない作品だ。

本記事では、「 シャイニング 」を深掘りしていく。

目次

シャイニング

©︎The Shining

あらすじ

ホテルの管理人として働くようになった作家志望の男は、妻と不思議な能力「 シャイニング 」を持つ息子とホテルに住み始める。そこで次々に起きる怪奇現象。やがて、一家はホテルに漂う邪気に飲み込まれていくのであった。

原題

The Shining

公開日

1980年12月23日

上映時間

119分

予告編

キャスト

  • スタンリー・キューブリック(監督・脚本)
  • ダイアン・ジョンソン
  • ジャック・ニコルソン
  • シェリー・デュヴァル
  • ダニー・ロイド

公式サイト

シャイニング

「 シャイニング 」は公開時から評価されていたわけではなかった

©︎The Shining

モダンホラーの新星として飛ぶ鳥を落とす勢いだったスティーヴン・キングの原作を、巨匠スタンリー・キューブリックが映画化ということで、製作が始まった時点から大きな話題になっていた作品だ。

だが意外にも、本作は公開直後から賞賛を受けていたわけではない。

当時ホラー映画(最近は死語になった感がある「 オカルト映画 」)の主流にあった「 エクソシスト 」や「 オーメン 」のように、これ見よがしのショック演出がなく、

ストーリーも難解なため、公開直後は「 これはホラーなのか?」という戸惑いの声の方が大きかったのだ。

一般観客の戸惑いもさることながら、原作者のキング自身が、この映画を徹底的にこき下ろしたのが話題になった。

さらにウィリアム・フリードキン監督が「 まったく怖くない。俺の「 エクソシスト 」とは比べものにならない 」と余計な口を挟んだため、

やはりこれは失敗作だったのではないかという空気が支配的になり、評価は低迷することになった。

あくまでも1つの基準ではあるが、歴史のあるキネマ旬報ベストテンを眺めると、キューブリック映画は「 2001年宇宙の旅 」(1968年度 / 第5位)「 時計じかけのオレンジ 」(1972年度 / 第4位)

「 バリー・リンドン 」(1976年年度 / 第4位)と連続して高い評価を得ていたが、1980年度の本作はベストテン落ちしています。

8年後の「 フルメタル・ジャケット. 」で第2位に返り咲いているので、キューブリック黄金期の作品で「 シャイニング 」だけ、公開時の評価が突出して低かったのは明らかだ。

興行的には、当時の「 配給収入 」で4億6000万円。

現在の基準となっている「 興行収入 」に換算すると2倍の9億2000万円。

チケット代の値上がりも考慮すると12億円くらいの感じだろうか。

決して大コケではないが、特筆するほどのヒットではない。

ちなみに1980年に公開された映画の上位ヒット作としては、「 スター・ウォーズ / 帝国の逆襲 」が配給収入32億円、「 影武者 」同27億円などが並んでいる(興収で比較するなら、どちらも2倍にして考えてほしい)

事情は海外でも同じだ。米アカデミー賞では、 「 2001年宇宙の旅 」「 時計じかけのオレンジ 」「 バリー・リンドン 」が主要部門を含む複数部門にノミネートされ、

特に「 バリー・リンドン 」は4部門で受賞しているのに対し、その次作に当たる本作はアカデミー賞から完全に無視されている。

筆者の感覚では、本作が再評価され、映画史の中で押しも押されもせぬポジションについたのは、キューブリックが世を去り、DVDというメディアが一般的なものとなった21世紀に入ってからのことだ。

なぜスティーヴン・キングは映画版を酷評して怒ったのか?

©︎The Shining

当時の評価低迷に大きな影響を与えたのは原作者であるキング自身による酷評だが、原作を読めば、彼が映画版をこき下ろした理由も分からないではない。

小説と映画では、作品の方向性がまるっきり違うのだ。

原作は、シャイニング(一種の超能力)を持つダニー少年とホテルに巣くう悪霊の攻防戦を、両者の間で揺れ動く父親ジャックを挟みつつ、もっと分かりやすいサスペンスタッチで描いている。

ラストはオーバールックホテル炎上のスペクタクルで、悪霊の巣窟であるホテルが消滅することで、劇的なカタルシスも得られる。

優れたホラーでありつつ、エンターテイメントとしても完璧な作品だ。

それに比べると、映画は比較にならないほど地味だ。

そもそも表面的なストーリーだけを追っていると、悪霊のような存在がジャック(ジャック・ニコルソン)のストレスと酩酊から生み出された妄想のようにも見える。

ダニー(ダニー・ロイド)やハンラハン(スキャットマン・クローザース)のシャイニングは、ストーリーの進行にほとんど影響しない。

クライマックスは雪の庭での追いかけっこで、スペクタクル性は希薄。

ホテル自体は破壊されず、多くの謎ばかりが残るため、劇的なカタルシスはほとんど得られない。

キングは「 私の小説は炎で終わるが、キューブリックの映画は氷で終わる 」という名言を残している。

エンターテイメントとして見るなら、映画版はハッキリ言ってショボい。

なお、続編にあたる「 ドクター・スリープ 」の映画版は、小説版「 ドクター・スリープ 」と映画版「 シャイニング 」、両方の続編のような形になっていて、

映画版「 シャイニング 」では描かれなかったオーバールックホテルの爆発炎上がクライマックスとなっている。

これには映画・原作両方のファンとして胸が熱くなった。

原作の一番面白い部分を切り捨てて地味な展開にしたのだから、キングが怒るのも無理はない。

しかし映画が駄作かと言えば決してそんなことはなく、原作とは全く位相の違う怖さを実現している。

原作は敵=悪霊の存在がはっきりしているため、その魔の手からどのように逃れるかというサスペンスが主体になっているが、その分描写が説明的になる嫌いはある。

また、トランス一家に害を為そうとしている敵が、どんな存在なのか分からないという未知の恐怖は希薄だ。

それに対してキューブリックは「 そこに確かに存在する、しかし未知なる恐怖 」を描くことに専心している。

しかもその描き方が極めてユニークだったため、公開当時は観客に戸惑いをもたらし、ある程度の年月を経た後、真価を理解されるに至ったというわけだ。

そのユニークな演出の例として、3つの要素に注目してみよう。

文字を通じて伝わる狂気

多くの人が本作で一番怖いシーンとして上げるのは、小説を書いていたはずのジャックの原稿がすべて「 All work and no play makes Jack a dull boy(仕事ばかりで遊ばずにいるとジャックはダメになる)」というフレーズで埋め尽くされていたと分かるところだ。

それまでのジャックがらみの不気味なシーンは、アルコールによる幻想とも受け取れるが、このシーンは妻ウェンディ(シェリー・デュバル)の視点から、ジャックが完全に狂気に陥っていることが分かるため、非常にショッキングな効果を持つ。

このことわざは、日本で言えば「 よく学びよく遊べ 」とほぼ同義で、boyという言葉からも分かるように本来は子どもに関するものだ。

それを大人であるジャックが延々と打ち続けていることに凄まじい狂気が感じられる。

しかしこのシーンの本当の恐ろしさは、文字の意味以上に、文字そのものの視覚的な情報を通じて伝わってくる。

まず、同じフレーズが果てしなく連なっているだけでも、ジャックの狂気が十分に感じられる。

だが、よく見ると1行ごとに単語やスペースの入れ方が微妙に異なっていたり、ページによって打ち方のレイアウトが異なっていたり…

そこには歪んだユーモアも感じられるが、ジャックが完全にあちら側の世界に行ってしまったこと、自分たちとは別の世界で理解できない遊びに耽っていることが「 視覚的に 」伝わってくる。

だからこそあれほど戦慄するのだ。

シンメトリーの向こうにいるもの

もう1つ特筆すべきはシンメトリー(左右対称)の強調だ。

キューブリックは元々シンメトリーが好きな作家で、「 時計じかけのオレンジ 」など他の作品でも見ることができるが、最も強い印象を残すのは、やはり本作だろう。

シンメトリーは自然界にはほとんど存在しないもので、そこには常に何者かの意図が感じられる。

本作はそれを多用することで、「 このホテルには何か得体の知れないものが存在する 」と感じさせることに成功している。

自然界にはほとんど存在しないと書いたとおり、我々が目にするシンメトリーは、ほとんどが建築物など人工的なものだ。

ところがキューブリックは、そこに「 自然のシンメトリー 」を持ち込んでくる。

ダイアン・アーバスの写真に想を得たとされる、あの双子だ。

双子自体はそこまで珍しいものではないが、キューブリックは姉妹にまったく同じ服を着せ、鏡合わせのように並べ、その対称性をことさら強調している。

しかも双子が登場するのは、人工的なシンメトリーに満ちたホテルの廊下だ。

双子はダニーに直接的な危害を加えるわけではない。

にも関わらず、「 人工的なシンメトリーの中に自然のシンメトリーが現れる 」という不自然さが、ただそこに存在するだけで逃げ出したくなるほどの禍々しさを感じさせる。

空撮の不気味さ

もう1つ、本作のムードを決定づけているのがオープニングの空撮だ。

ドローンでの撮影が一般化した昨今では特に驚きを感じないかもしれないが、1980年当時、この空撮の自然な浮遊感は極めて斬新なものだった。

その未使用テイクが「 ブレードランナー 」のラストに流用されたという逸話も、あの空撮の価値を物語っている。

そこに映し出されているのは、広大で美しい自然だ(ロケ地はモンタナ州グレイシャー国立公園)

雰囲気を変えれば、格好の観光PR映像となりうるかもしれない。

だが本作のオープニングは、葬送行進曲のような重々しいテーマ曲(グレゴリオ聖歌「怒りの日」のアレンジ)も相まって、極めて不気味な印象を与える。

この空撮は、なぜこれほど気味が悪いのか?

1つの理由は、すでに述べた「 自然過ぎる浮遊感 」にある。

実際にはヘリコプターで撮影しているのだが、そのような人工的な雰囲気を一切感じさせず、実体のない霊的なものがトランス一家の乗った車の後をそっとつけているようにしか見えない。

さらに、この広大な自然そのものが怖さを醸し出している。

確かにそれは美しい風景だ。

だがその中で動いているのはトランス一家の乗ったちっぽけな車だけ。

たまに停まっている車は見られるものの、生きた人間の気配は何1つ感じられない。

つまり、美しいけれど徹底的に「 非人間的 」な光景だ。

「 2001年宇宙の旅 」における茫漠とした宇宙空間と、そこを進むディスカバリー号に似た関係と言ってもいいだろう。

物言わぬ自然は人間には無関心。

文明から切り離された人間のことなど歯牙にもかけない。

そこで蠢く(うごめく)ものは、ちっぽけな人間たちと、何か得体の知れない霊的な存在…

この構図は、完全にその後の物語を暗示している。

「 ここはお前がいるべき場所ではない 」

そんな巨大な圧力をこのオーブニングから感じずにはいられない。

映画的な怖さの本質

©︎The Shining

この3つの特徴を挙げれば、映画版「 シャイニング 」の怖さの本質がどこにあるか分かるだろう。

それは徹底して「 視覚的な怖さ 」だ。

しかも(そういう描写も少しあるが)スプラッタームービーのような暴力的でグロテスクな怖さではなく、その向こうにある目に見えない存在が醸し出す恐怖。

つまり「 視覚的でありながら、視覚を超えた恐怖を感じさせる演出 」で貫かれた映画ということだ。

これは言葉によって構築される小説では不可能に近いことで、映画版がキングの原作と別物になったのも当然と言える。

「 説明的な描写を排し、視覚的な体験を通じて、視覚を超えた存在を感じさせる 」という点において、「 シャイニング 」と「 2001年宇宙の旅 」が非常に近しい関係にあることにも気付く。

「 2001年宇宙の旅 」も公開当初は戸惑いの声の方が圧倒的に多く、それから10年ほどの歳月をかけて、徐々にSF映画の最高傑作と認識されるようになった。

「 シャイニング 」がそれと同じような道をたどったのは、決して偶然ではないということだ。

執筆者

文・ライター:ぼのぼの

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