「 神の道化師、フランチェスコ 」70年以上前の作品を見ることで映画体験をより豊かなものにする

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神の道化師、フランチェスコ

©︎Francesco, Giullare di Diohdet

あらすじ

『無防備都市』(45)、『戦火のかなた』(46)などでイタリア・ネオリアリズモの巨匠と称されるロベルト・ロッセリーニが、アッシジの聖人フランチェスコと彼を慕う修道士たちの事績を、ユーモラスな描写も交えながら峻厳なスタイルで撮り上げた1950年の作品。

公式サイトより

原題

Francesco, Giullare di Diohdet

公開日

2023年12月22日(初公開 1991年3月16日)

上映時間

82分

予告編

キャスト

  • ロベルト・ロッセリーニ(監督・脚本)
  • フェデリコ・フェリーニ
  • ナザリオ・ジェラルディ
  • セヴェリーノ・ピサカネ

公式サイト

神の道化師、フランチェスコ

ロベルト・ロッセリーニ、その評価の変遷

©︎Francesco, Giullare di Diohdet

ロベルト・ロッセリーニは、「 無防備都市 」(1945年)「 戦火のかなた 」(1946年)などの作品により、イタリア・ネオリアリズモの巨匠として知られる監督だ。

その一方で、ハリウッドスターとして絶頂期にあったイングリッド・バーグマンと1950年に結婚したことが、映画史を揺るがす事件ともなっている。

結婚というとめでたい感じだが、2人が出会ったとき、ロッセリーニもバーグマンも既婚者であり、つまりは不倫関係。

まだ別の男性と結婚している期間中にバーグマンはロッセリーニの子どもを出産。

互いのパートナーや子どもさえ捨てた上での結婚だったため、当時は大スキャンダルとなり、その後数年間バーグマンはハリウッドを干されることとなった。

1956年の「 追想 」でハリウッド映画に復帰し2度目のアカデミー主演女優賞を獲得したものの、57年の授賞式には出席できず。彼女が本当にハリウッドに迎えられたのは、

57年にロッセリーニと離婚し、58年のアカデミー賞授賞式のプレゼンターとして登場したときだ。

なおロッセリーニとバーグマンの間にできた子どもの1人が「ブルー・ベルベット」などに出演したイザベラ・ロッセリーニである。

日本では、ネオリアリズモの代表作は当時絶大な評価を受けたが、バーグマンを主演に据えた「 ストロンボリ 」(1950年)「 ヨーロッパ一九五一年 」(1952年)「 イタリア旅行 」(1954年)などは、

「 ロッセリーニのネオリアリズモ手法とバーグマンのハリウッドスターとしての個性が噛み合わない失敗作 」という烙印を押されてきた。

そのためロッセリーニという監督への評価は、「 初期の作品はすばらしいが、バーグマンと一緒になってからは… 」というかなり微妙なものが主流だった。

早い話が、ロッセリーニとバーグマンの不倫・結婚は両者のキャリアを汚す黒歴史、映画史上の損失とすらみなされてきたわけだ。

しかしフランスでは、カイエ・デュ・シネマ周辺の批評家や映画作家が50年代以降の作品を擁護し、ロッセリーニをヌーヴェルバーグの源流として評価。

それは蓮實重彦氏などを通じて日本にも波及し、一部シネフィルの間ではロッセリーニは偉大な映画作家とみなされている。

蓮實氏は、「 映画狂人 」シリーズの中で、「 神の道化師、フランチェスコ 」をオールタイムベストの1本に上げている。

だが「 後期の作品は… 」という旧来の見方も根強く、上映の機会が決して多くないこともあり、日本でのロッセリーニに対する評価は、立場によってかなり違うものとなっている。

オールタイムベストような企画があると、名前が上がってくるのはやはり「 無防備都市 」など初期の作品になり、同時代の他の巨匠たちに比べると、映画史の中での位置づけが定まらない印象だ。

「 神の道化師、フランチェスコ 」は、そんなロベルト・ロッセリーニの1950年作品。

バーグマンと出会った「 ストロンボリ 」の次の作品となっている。

本作の日本初公開が製作から41年も経った1991年だったことからも、ロッセリーニに対する日本の評価の一端が分かるだろう(もちろん商業性の薄い宗教的な内容であることが大きな理由だが)。

共同脚本は監督デビュー直前のフェデリコ・フェリーニで、ロッセリーニとのコンビは「 無防備都市 」「 戦火のかなた 」「 アモーレ 」(1948年)に続く4作目。

後述するが、本作と「 道 」(1954年)の関係性は特に興味深い。

そもそもフランチェスコとは?

内容は、清貧の思想で知られ、過激なまでに愛と平和を説いた中世イタリアの聖人「 アッシジのフランチェスコ 」(1182〜1226年)と、その小さな兄弟たち(仲間/弟子)の姿を描いたもの。

14世紀前半、つまりフランチェスコの死後およそ1世紀を経た頃に書かれた「 聖フランチェスコの小さき花 」と「 修道士ジネプロ伝 」に基づき、時代的には1210〜18年のエピソードが描かれている。

フランチェスコを描いた有名な映画として、フランコ・ゼフィレッリの「 ブラザー・サン シスター・ムーン 」(1972年)がある。

こちらは未見だが、フランチェスコの若き日を描いたもので、ローマ教皇イノケンティウス3世に謁見してアッシジに戻ってくるところまでの話らしいので、時系列的には本作の完全な前日譚になっているはずだ。

「 ブラザー〜 」→「 神の道化師〜 」の順で見ると、さらに理解も深まることだろう。

なおフランチェスコを英語読みにするとフランシスコになり、実はアメリカの大都市サンフランシスコ(=聖フランシスコ)は、この映画の主人公の名前をそのまま冠したものであることも付け加えておく。

主に映画史的な観点から必見の理由が並ぶ「 神の道化師、フランチェスコ 」だが、実際に見てみると、映画史云々とは少し離れた部分でも面白さにあふれた作品だった。

個人的に本作に惹かれたポイントについて書いてみよう。

純度の高いキリスト教映画

興味深い点の1つは「 キリスト教映画 」としての純度の高さだ。

聖書のエピソードを描いた映画やキリスト教の聖人を主人公にした映画はたくさんある。

だが「 十戒 」や「 天地創造 」など、一時期ハリウッドでたくさん作られた大作は、形としては聖書のエピソードを描いているものの、物語としての面白さや映像スペクタクル重視で、深い精神性に欠ける。

「 パッション 」はイエスの死と復活を聖書の記述にかなり忠実に描いた作品だが、イエスの行動のみを描いて、その精神性までは描けていないように感じられた。

そのため、この映画を見てもあまりキリスト教の本質に触れた気がしない。

あそこに至るまでの意味を熟知している信者なら別だが、そうでない者にとっては、最後の1日と復活だけ見せられても信仰の本質には届かないということだろう。

そのような作品よりも、エルマンノ・オルミの「 木靴の樹 」、カール・テオ・ドライヤーの「 奇跡 」、ロベール・ブレッソンの「 バルタザールどこへ行く 」といった作品の方が、キリスト教の本質的な部分を描いているように思える。

ただしこちらは深い精神性や思想を受け継いでいるものの、キリスト教や聖書にまつわるエピソードを直接的に描いているわけではない。

あくまでも「 キリスト教の思想にを底流に持つ物語 」だ。

神の不在について問うイングマル・ベルイマンの映画は、キリスト教に対する批評という性格が強い。

その点「 神の道化師、フランチェスコ 」は、聖書中のエピソードではないが、実在の聖人にまつわる物語を精神性豊かに描いている。

フランチェスコの思想や生き方は極端すぎて、直接的には現代社会とマッチしない部分が多いが、いわば寓話のような形でキリスト教の本質的な部分に触れている。

もちろん「 信者でない者の目にはそう映る 」という話に過ぎないが、おそらく信者が見ても、この点について異論は出ないのではなかろうか。

また本作の大きな特徴として、フランチェスコとその仲間たちを、プロの俳優ではなく、フランチェスコ会の実際の修道士たちが演じていることが上げられる。

元々ロッセリーニは素人を使って映画を撮ることが多いが、それにしても出演者の大部分が実際の修道士で、それが歴史上有名な聖人たちを演じるという例は他にあまりないのでは。

当然のことながら、彼らの聖職者としての佇まいや、発する言葉に込められた思いなど、全てがリアルそのもの。

これぞ正真正銘のキリスト教映画と言いたくなる。

あふれるユーモアは作品理解に欠かせないもの

そのような話を聞くと、非常に硬く生真面目な映画だと思うだろう。

ところが実に意外なことに、これが柔らかなユーモアに満ちた、笑える作品になっている。

実は最初のうち、なかなか作品に入り込めなかったのだが、それはこの映画の性質を誤解していたため。

シリアス極まりない映画だと思い込んでいたので、うまく鑑賞のチューニングが合わせられなかったのだ。

途中から「 いや、これは明らかに笑っていい映画なんだ。さっき反応に困ったあれは、やはり笑える場面として存在していたんだ 」と気がついて、見方を修正した次第だ。

しかもその笑いが、ある時は、浮世離れしすぎた修道士たちへの批評として機能する。

一方で「 通常の感覚からすれば滑稽極まりないことを、彼らはどのような信仰のもとにやっているのか?」と考えを巡らせることで、本作の最大のテーマである〈 完全なる歓び 〉へとつながっていく。

笑いは単なる観客サービスではなく、この作品の本質を理解するために欠かせない要素ということだ。

もう1人の主役ジネプロは「 道 」のジェルソミーナの原型

この作品は、タイトルにもある通りフランチェスコが主役のはずだが、実はフランチェスコよりも強い印象を残すのが、ジネプロという仲間だ。

この男が呆れるほど愚直そのもので、貧しい者に乞われると僧衣を恵んでしまい、裸同然の姿で帰ってくる。

フランチェスコは「 許可なく僧衣を人に与えてはいけない 」とたしなめる。

だがしばらくすると、ジネプロはまた裸で帰ってくる。

どうしたのだと問われて、ジネプロはこう答える。

「 僧衣を与えることはできないから、奪ってくれと言った 」…この一休さんのとんちのようなやり取りも笑ってしまうシーンの1つだが、

ジネプロの救いようのない愚直さ、持続可能性のない善意の中に、フランチェスコたちの理想のいささか極端な形(と限界)が見えてくる。

ジネプロは集団の料理係だが、自分も布教に参加したいがために、大きな鍋を使って15日分の食料を一挙に作る(このシーンのドタバタがまた笑える)。

その熱意を理解したフランチェスコは、ジネプロに布教を許す。

初めての布教に出たジネプロだが、暴君ニコライオ率いる軍勢にとらわれ、オモチャのように振り回された挙げ句、暗殺者だと誤解されて死刑にされかかる。

ところがニコライオと対峙したジネプロは、命の危機にも動じることなく神の道について語り、穏やかな微笑みを崩さない。

困惑したニコライオは、結局ジネプロを許し、街の包囲を解いて立ち去る。映像的なダイナミズムも含め、このエピソードが全編最大のクライマックスと言っていいだろう。

いかにもキリスト教的な説話だ。正直「 そんなにうまくいくものか?」という気はするが、揺るぎない思いに支えられた者の前に強者が屈する構図は、黒澤明の「 生きる 」における志村喬と宮口精二の対峙を想起させる。

またフランチェスコというメンターと実質的には弟子に当たるジネプロの成長という構図は、「 赤ひげ 」における三船敏郎と加山雄三の関係も思い出させる。

キリスト教的な説話でありながら、「 信念を持つ者の強さ 」や「 良き師弟関係 」という、宗教を超えたテーマが浮かび上がるのが何とも興味深い。

また、最初の方でも述べた通り、本作の共同脚本家はフェデリコ・フェリーニだ。

そうなると、本作におけるニコライオとジネプロの関係が、フェリーニの出世作「 道 」のザンパノとジェルソミーナの関係に引き継がれていると見ても問題はないだろう。

本作と違い「 道 」は悲劇的な展開を見せるが、それでも最後にはジェルソミーナの無垢がザンパノに悲しみという人間的な感情をもたらす。

ジネプロのエピソードの発展型が「 道 」という名作であることに気づくと、映画史に新たな補助線が引かれるようで興奮する。

最初にネタバレを提示する演出

本作は10のエピソードで構成されているが、ユニークなのは、各エピソードの冒頭に字幕が出て、結末まで含めたあらすじが比較的くわしく説明されることだ。

つまり最初にストーリーのネタバレがあって、実際にその通りのストーリーが展開するわけだ。

普通に考えれば「 そんな馬鹿な 」という演出だが、ネタバレを異常に気にする人が多い昨今の風潮からすると、むしろ痛快ですらある。

最初にストーリーの手の内を明かし、それを映画らしい語り口によって面白く見せるという趣向は、最初に曲のテーマ(分かりやすいメロディ)を演奏し、それを発展させたアドリブで聞く者を魅了するモダンジャズの手法も想起させる。

ゴダールが「 イタリア旅行 」(1954年)に感銘を受け、「 1台の車と男と女がいれば映画は撮れる 」と言って「 勝手にしやがれ 」を撮ったのは有名な話だ。

ロッセリーニがカイエ・デュ・シネマ周辺の人間に強く支持されたのは、そのような「 カメラを持てばすぐにでも映画が撮れる 」という即興性や、ドキュメンタリー的なリアルさが主な理由だろう。

それと同時に、ストーリーそのものに依存せず、「 ストーリーをどう語るか 」で見る者を惹きつける姿勢が、非常に「 映画的 」であると評価された点も大きそうだ。

1950年製作、モノクロのスタンダード、内容はキリスト教の聖人を描いたもの…地味で退屈そうで見る気が起きないと思う人も多いに違いない。

しかし実際に見てみると、このようにさまざまな面白さにあふれた作品だ。

地味であることは確かだが、決して退屈ではない。

ロベルト・ロッセリーニという映画作家の歴史的背景まで知った上で見れば、一層興味も深まるだろう。

時にはIMAXやDolby Atmosの世界を離れ、こんな70年以上前の作品を見ることも、あなたの映画体験をより豊かなものにするはずだ。

執筆者

文・ライター:ぼのぼの

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