世界中で大ヒットしアカデミー賞7部門を獲得した「 オッペンハイマー 」
しかし、どうしても素直に受け入れられないものを、この映画に感じるのは自分だけだろうか…?
オッペンハイマー
あらすじ
第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。
原題
Oppenheimer
公開日
2024年3月29日
上映時間
180分
予告編
キャスト
- クリストファー・ノーラン(監督)
- キリアン・マーフィ
- エミリー・ブラント
- マット・デイモン
- ロバート・ダウニー・Jr.
- ローレンス・ピュー
- ジョシュ・ハートネット
- ケイシー・アフレック
- ラミ・マレック
- ケネス・ブラナー
- ディラン・アーノルド
- デビッド・クラムホルツ
- マシュー・モディーン
- ジェファーソン・ホール
- デベニー・サフディ
- デビッド・ダストマルチャン
- トム・コンティ
- グスタフ・スカルスガルド
- マイケル・アンガラノ
- デイン・デハーン
- オールデン・エアエンライク
公式サイト
情報量過多なIMAXにこだわる必要はない
クリストファー・ノーランの新作であり、第96回アカデミー賞で作品賞などを含む7部門を獲得した超話題作。
3時間の長編でありながら、実在の人物を描いた伝記映画として史上最高の大ヒットに。
しかし内容は、原爆の発明者であるオッペンハイマーの物語。
被爆国である日本では公開が遅れに遅れ…といった類の情報は、すでに山のように出回っているので、屋上屋を重ねることはしない。
あくまでも内容について、筆者が鑑賞して気になった点だけ語りたい。
なお筆者はIMAXレーザーで1回、かなり大きな通常スクリーンで1回見ている。
IMAXでの観賞を何かと言えば推奨されるノーラン映画(実はこの押しつけがましさが大嫌い)。
確かに映像も音響もIMAXの方が迫力があるのは当然だ。
しかし本作のIMAX版は、同じシーン内でショットごとに画角がチャカチャカと変わったりするため気が散ることも多い。
大部分は会話劇であり、情報量が常軌を逸して多い作品だ。
映像と音の情報量がより膨大になるIMAX版は、その分物語を追うことを妨げられる弊害もある。
その場にいるような迫力を求めるならIMAX版、物語をきちんと理解するなら通常スクリーンの方が有利であり、どちらも一長一短。
内容的に言えば、筆者はむしろスクリーン大きめで音響も良いところなら、通常スクリーンで落ち着いて物語に向き合う方をオススメする。
ノーランの作家的エゴに、観客が無理につき合う義理はない(もちろんつき合うのも自由だ)。
ろくな説明もない多数の登場人物は予習必須
1回目の観賞で戸惑ったのは、その情報量の膨大さと複雑さだ。非常に複雑な構成だというのは事前に聞いていたので、ある程度は人物関係などを頭に入れて見にいったのだが、
それでもついていけないほど多くの人物が次から次へと出てくるため、後半は「この人誰だっけ?」状態。
物理学関係の話は問題ないのだが、ろくな説明描写もなしに多数の登場人物が入れ替わり立ち替わり出てきて、どういう立場でその台詞を喋っているのか分からないことが多いのがキツすぎる。
日本版で文庫3冊になる原作評伝を読み込むなど、オッペンハイマーの生涯に相当くわしくない限り、1回の鑑賞でこの内容を把握するのは、とても無理だと思う。
2回見ても完全に理解できるわけではないが、1回目で取りこぼした情報や誤解していた意味を修正し、どうにかこうにか概要を正しく把握できるという感じだ。
実は「 赤狩り>原爆 」なストーリー
そして最も意外だったのは、作品全体の印象として、明らかに「 赤狩り>原爆 」だったこと。
日本ではずっと原爆の扱いばかり話題になっていたため、そちら方面を掘り下げた映画だと思って臨んだのだが、肩透かしを食らった。
原爆開発は赤狩りの物語の前振りにすら見えた。
もう1つ、妙な居心地の悪さを感じたことがある。
この作品、「 オッペンハイマーが見聞きしたものを、彼の主観を通して描く物語 」だということになっている。
だから「 彼が直接見ていない広島・長崎の惨状が描かれないのは理にかなっている 」とも説明されてきた。
しかし、この時空を自在に行き交う複雑な劇構造…
世界を、時間の流れを、こんな風に認識している人間は通常はいない。
つまり「 オッペンハイマーの主観だけを描く物語 」だと言いながら「 通常の人間の意識からかけ離れた形式で綴られる物語 」になっている。
この矛盾した作劇が、理屈としては分からなくても、心の中で無意識の摩擦を起こしていたようだ。
しかもモノクロシーンだけはストローズの主観になっているため、よけい視座の設定に混乱をきたす。
一言で言うなら「 すべてにおいて落ち着かない映画 」ということだ。
ここまで時系列を分解する必然性は?
2回目の鑑賞で、1回目ではよく理解できなかった点を補い、どうにか物語の穴を埋めることができた。
しかし「 こんな風に時系列を分解し、あえて話を分かりにくくする意味はあったのか?」というのは、やはり大きな疑問だ。
その作劇がとてつもない映画技術によって成立していることは分かる。
だが物語を伝えるには、普通の時制通りに描き、余計な要素を省いた方が適切ではないのかという、元も子もない思いが消えない。
比較的大きな部分で言えば、ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)のエピソードは本当に必要だったのか?と思ってしまう。
少なくとも「 原爆の発明 」と「 赤狩りによる失脚と、その後の名誉回復 」を物語の最重要要素だとするなら、ジーンの物語は、
そのどちらにも本質的な部分でからんではないので、優先順位は低いと言わざるをえない。
おそらくノーランは、そのような私生活上のゴタゴタまで描いてこそオッペンハイマーの全貌に迫れると思ったのだろうが、たかが3時間の映画で1人の人間の全貌に迫ることなど、そもそもできるわけがない。
そこには必ず取捨選択が求められる。
それが適切になされているとは思えない部分が多々見受けられた。
「 物語上の必然からすれば優先度は高くないが、個人的にどうしても入れたいシーンを入れて、そのアラがバレないようにするため時系列を解体し、〈体験〉という言葉で誤魔化しているのでは?」という疑いすら抱くほどだ。
たしかに「 感覚的な体験 」としては功を奏しているが、その分「 物語 」としては極めて咀嚼しにくくなっている。
つまり「 物語 」よりも「 感覚的な体験 」を優先した作りであり、この辺が本作に限らずノーラン映画に対する好悪が分かれる理由だろう。
オッペンハイマーの広島・長崎に対する後悔・罪悪感はあったのか?
本作は日本公開までの長い道のりで、原爆に関する映画として語られてきた。
実際に見てみると原爆よりも、赤狩りとその後の名誉復活エピソードの方が比重が高いのに拍子抜けしたのは、すでに書いたとおり。
しかし、それだけでは済まない妙な違和感の正体が2回目でやっと分かった。
あらためて見ると、この映画において、オッペンハイマーは「 核爆弾が制御不能な存在となり、人類の歴史を変えたこと 」に対しては大きな恐怖や罪悪感を抱いている。
だがその一方で、「 広島・長崎の被害に対する具体的な後悔や罪悪感 」はほとんど抱いていないことが分かる。
未来に対する恐怖と罪の意識はあっても、実際に起きたことに対する罪の意識は極めて薄いということだ。
広島・長崎の惨状を直接描かないのは、「 彼の主観でストーリーを進める 」という文法から言って良しとしよう。
だがその後のスピーチのシーンで彼が見る幻視をもって、「 原爆の惨状にもちゃんと触れている 」という意見には疑問を覚える。
あれは「 もし原爆がアメリカで使われたら… 」という非常に抽象的な恐怖であって、実際に起きた広島の惨状に思いを馳せたわけではない。
彼がこの時点で、その光景をリアルに理解していたとも思いにくい。
彼の前にあるのは死者数万人という「 数字 」だけだ。
そもそも彼は日本への原爆投下反対の署名を拒否している。
原爆投下地を決定する会議でも、彼が心配しているのは「 原爆という虐殺行為に対する倫理的責任 」ではない。
「 それによってソ連との軍拡競争が始まること 」だけだ。
情報の洪水に紛れて、この重要なポイントを見逃してはいけない。
広島・長崎のスライド上映シーンでも、彼は目をそらしている。(他の人物は皆ちゃんと見ている)
あれをもって「 正視できないほど残酷な光景であることを暗示している 」と言う人が多いが、それはあまりに甘過ぎる解釈ではないのか。
繰り返すが他の出席者はちゃんと見ている。
オッペンハイマーだけは、特に苦悩の表情を浮かべるわけでもなく、ただ目を下にそらして見ないようにしている。
そう、「 見ることができない 」のではなく「 見ないようにしている 」と私の目には映った。
つまり彼は、抽象絵的な思考によって核の恐怖におびえることはできるが、目の前の具体的な惨状に対しては無関心、少なくとも直接触れようという気はないわけだ。
これは「 実験が苦手で理論だけが得意 」という、しつこく描写された彼の性格とも合致している。
オッペンハイマーはあくまでもアメリカの英雄
もちろんそれはメタ的に言えば、「 アメリカ国内で反発を買わないため 」ということだ。
そういう意味で本作は、アメリカ人が今なお広島・長崎に対する原爆を罪だと感じていないことを示す貴重なサンプルだと言えよう。
しかし、この映画内においてオッペンハイマーが広島・長崎に対する罪の意識を感じている描写がほとんど無いというのは事実だ。
これを忘れてはいけない。
わずかにそれを感じられるのはトルーマンとの会合だが、そこでも彼が一番気にしているのは、広島・長崎ではなくソ連との軍拡競争の方だ。
しかも「 日本人が恨むのは、原爆を作った君ではなく、落とした私だ 」とトルーマンが傲慢な態度で言ってのけることで、観客の意識を「 オッペンハイマーに原爆投下の直接の罪はない 」という方向に運んでしまう。
最後の黙示録的な光景にしても、オッペンハイマーが幻視しているのはICBMが飛び交う全面核戦争の様子だ。
つまり「 広島・長崎で実際に起きたこと 」ではなく「 これから起きるかもしれない抽象的な恐怖 」だ。
広島・長崎で「 実際に起きたこと 」は徹底的に排除された上で、ソ連との全面核戦争という「 実際には起きなかったこと 」が描かれている。
2回見てこのような作劇に気がつくと、さすがに不自然さを感じる。
いくらアメリカ人の価値観を刺激しないためと言っても、ここまで徹底的に事実を排除してしまう姿勢、「 オッペンハイマーの罪は広島・長崎ではなく、ソ連との軍拡競争を起こしたこと 」という方向に話を持っていく姿勢には、疑問を感じざるをえない。
そんな具合に重要な事実を排除した上で、赤狩りによる失脚と、その後の名誉復権が物語のメインになる。
しかもそこでは彼が「 祖国のために働いた英雄 」として描かれている。
特に驚かされるのは、終盤アインシュタインが「 私は国を捨てた人間だが、君は国を救った人間だ 」と言うことだ。
あのアインシュタインか本物なのか幻視なのか脚本を読んでもよく分からないのだが、幻視の可能性が高そうだ。
「 人道的な罪を抱えた人物 」ではなく「 アメリカの英雄 」が「 主に個人的な恨み 」によって赤狩りで失脚し、アインシュタインやケネディという葵の印籠に近いキャラまで持ち出した作劇によって「 名誉回復 」を成し遂げる。
つまりオッペンハイマーの業績は、どこまでも「 アメリカにとって英雄的な行為 」として賞賛されている形だ。
この映画が描いたこと / 描かなかったこと
これをアメリカ人が誉めるのは分かる。
しかし我々日本人が、このような作劇をよく理解せぬまま賞賛するのは、さすがにちょっと違和感がある。
みんなあのトリッキーな映画技術に騙されて、肝心な部分を見逃しているのではないだろうか。
トルーマンとの会話で、ロスアラモスの今後を聞かれたオッペンハイマーは「 先住民に土地を返します 」と言い、トルーマンたちが「 何言ってんだ、こいつ?」的な顔をするシーンがある。
実は私も最初に見た時は、情報の洪水の中で、ぼんやりとオッペンハイマーの人権尊重的な姿勢を描くもののように誤解してしまった。
しかしとんでもない。
よく考えてみれば、原爆の実験場となったロスアラモス周辺は放射能汚染され、そこに住む先住民の間で放射線障害が多発したことで知られる土地だ。
それを考えれば、人権尊重などとんでもない話で、事実アメリカでは、広島・長崎よりも先住民軽視の方が批判されているらしい。
繰り返しになるが、この映画で描かれているオッペンハイマーの罪の意識は「 ソ連との間に核兵器開発競争を引き起こし、人類滅亡につながる扉を開いたこと 」という未来に対する抽象的なものであり、
広島・長崎や先住民の問題など実際に起きた具体的なことに対する自責の念はほとんど描かれていない。
この映画を肯定否定どのように評価するのであれ、この事実だけはきちんと押さえておく必要があるだろう。
文・ライター:ぼのぼの