2024年末から異例の快進撃が続く話題のドキュメンタリー。
元々はポレポレ東中野ほか4館での小規模公開だったが、連日の大入り満員で公開規模が拡大され、1ヶ月後には全国100館以上で公開されるに至った。
筆者が見た川崎市アートセンターでも、平日の昼間だというのに9割方の大入り。
そのヒットぶりをまざまざと実感した。
どうすればよかったか?

あらすじ
面倒見がよく、絵がうまくて優秀な8歳ちがいの姉。両親の影響から医師を志し、医学部に進学した彼女がある日突然、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。その判断に疑問を感じた弟の藤野知明(監督)は、両親に説得を試みるも解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。
このままでは何も残らない——姉が発症したと思われる日から18年後、映像制作を学んだ藤野は帰省ごとに家族の姿を記録しはじめる。一家そろっての外出や食卓の風景にカメラを向けながら両親の話に耳を傾け、姉に声をかけつづけるが、状況はますます悪化。両親は玄関に鎖と南京錠をかけて姉を閉じ込めるようになり……。
20年にわたってカメラを通して家族との対話を重ね、社会から隔たれた家の中と姉の姿を記録した本作。“どうすればよかったか?” 正解のない問いはスクリーンを越え、私たちの奥底に容赦なく響きつづける。
公開日
2024年12月7日
上映時間
101分
予告編
キャスト
- 藤野知明(監督)
公式サイト
地味なドキュメンタリーが異例の大ヒット

近年では「 カメラを止めるな! 」(2017)や「 侍タイムスリッパー 」(2024)のような類似例もあるが、その2本はウェルメイドなエンターテインメントであり、見たあと元気が出るタイプの作品だ。
低予算の自主映画だったから常識破りのヒットが目立ったが、作品の内容自体はメジャースタジオが作ったとしても不思議はないものだ。
それに対してこちらは見たあとどんよりと重い気分になる、地味な「 私ドキュメンタリー 」だ。
統合失調症の娘を抱えた家族の姿という、通常なら大抵の人間が見て見ぬ振りをし「 存在しないもの 」とされてしまうような題材だ。
そんな映画がヒットしたのだから、「 侍タイムスリッパー 」などとは全く違う意味合いを持っている。
公開直前に朝日新聞の夕刊が、この映画の内容を第一面で大々的に取り上げていた。
それが最初の発火点であったことは間違いないと思うが、その後のとどまるところを知らぬヒットぶりは、新聞記事のインパクトだけで説明できるものではない。
おそらく色々なメディアや口コミで話題になり、普段は映画を見ないような人々にも訴求しているのだろう。
客席を見回した感じでも、日常的に映画を見るファンというよりは、この映画だけを目的に、久しぶりに劇場に来たという感じの人が多かった。
なぜこんなにも多くの観客が集まったのか?
おそらくポイントは、先ほど述べた「 通常なら大抵の人間が見て見ぬ振りをし『 存在しないもの 』とされてしまうような題材 」という部分にある。
どんなに見ぬ振りをしたところで、それは確かに「 存在する 」。
だから見ぬ振りをすることに、どこか後ろめたさがつきまとう。
それが安全な形で可視化されたことで、多くの人が心理的な安堵を得るために劇場に集まったのではないだろうか。
筆者は統合失調症に関して詳しいわけではない。
「 以前は精神分裂病と呼ばれていて、妄想や幻覚が大きな特徴。それによって奇妙な言動が多くなる 」という程度の漠然とした知識しかない。
ただしこの映画の冒頭で「 この映画は姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的としていないし、統合失調症とはどんな病気なのか説明することも目的ではない 」といった断りが出てくるので、
病気に関する知識の有無は、作品の理解に決定的な影響は与えないように思う(とはいえ、詳しく知っていた方が理解が深まることは明らかだ)。
だが観賞後に調べて驚いたことがある。
統合失調症の発症率は、日本では0.7〜1%だというのだ。およそ100人に1人というのは、驚くほど多い数字だと思う。
筆者の周りには、少なくとも分かりやすい形で統合失調症を患っている者はいない(発達障害やうつ病、パニック障害なら、自分自身を含め石を投げれば当たるほど…)。
だからかなり特殊な病気のように思い込んでいたが、実はそんなことはなかったのだ。
偏見の強い病気だけに、発達障害やうつ病と比べても世間の目から隠されているはず。
だからあくまでも「 分かりやすい形ではいない 」だけであり、程度の差こそあれ、実は多くの人の身近に患者がいるのだろう。
何しろ100人に1人という割合なのだから。
それほど身近でありながら、これまで無視されてきた問題を、当事者の立場から描いた作品だからこそ、これだけ話題になり観客が集まっているのではないだろうか。
リアルな「 変身 」
作品の内容についてだが、「 統合失調症の患者を抱えた家族の苦悩 」的な部分は、正直に言うと、そこまで伝わってこなかった。
監督は「 我が家の25年は統合失調症の対応の失敗例です 」と語るが、それ故に深く描こうとすれば、どうしても両親に対して矛先が向く。
あまり描かれていないが、このような映像を撮影すること自体、両親には心理的な抵抗があったはず。
批判が鋭くなれば撮影の続行が危ぶまれた可能性も否定できない。
そのため分かりやすい形での批判や苦悩は控えめに感じられる。
全く描かれていないわけではないが、全体の構成からすればもっと鋭く追及する余地はあったはず。
血の繋がった家族だからこそ、逆に深入りしにくい部分があったのではないだろうか。
見ていて、リアルな「 変身 」のようだと思い、カフカの小説の高い象徴性と普遍性を実感した。
大きく違うのは、「 虫 」が死んだとき、既に家族は瓦解したあとだったということだが…。
他にも病を抱えた家族の問題に関して色々と思うことはあったが、それについては多くの人が語っているだろうし、語り手としてより適任な人がいると思う。
以下は、中心的なテーマとは少しずれた部分で、個人的に強く心に響いた点について書いていこうと思う。
年老いて壊れていく両親
この映画を見て何よりも心に響いたのは「 人間の老い 」だ。
本作の撮影が始まるのは、姉が発作を起こしてから18年後の2001年。
しかしそれ以前の家族の姿も、多くの写真や動画によって紹介される。
両親はともに医学系の研究者。1960年代前半にヨーロッパを旅し、エジプト旅行の様子をホームムービーに収めたりしているのだから、
経済的にどれほど恵まれたエリートだったかが分かる(最近円安と言われるが、当時は1ドル=360円の固定相場である)。
そのためこの映画は、20年以上に及ぶ家族のドキュメンタリーであるのみならず、60年以上に及ぶ夫婦のドキュメンタリーにもなっている。
なお父親は1926年、母親は1927年の生まれ。監督は1966年生まれなので、当時としてはかなりの高齢出産だ。
姉は弟より8歳年上らしいので、1958年頃の生まれだと推測される。
研究者である両親は、どちらも高い知性の持ち主だ。撮影初期の話ぶりからもそれが伺える。
このとき既に2人とも70代だったわけだが、母親は家に高価なラボを備えて何か研究を続けているようだし、話しぶりもかくしゃくとしている。
病気を発症したまま40代となり時には奇怪な言動をする姉と、既に18年も暮らしているわけだが、それによる疲れや暗さは不思議なほど感じられない。
ある種の演技かもしれないし、もう慣れてしまったということかもしれない。
当面の生活に困らない裕福さも支えになっていたことだろう。
ところが撮影が進むにつれて、両親は急速に老いていく。
彼らがまだ30代だった1960年代の姿を見ているだけに、ある時期からの老いには息を呑むものがある。
単に見た目が老け込んでいくだけではない。
母親に関しては、明らかに知性が衰え、どこか駄々っ子のような雰囲気になっていくのだ。
彼女はやがて認知症となり、83歳で亡くなる。
それが明白になる前から、徐々に症状が現れていたのだろう。
1927年生まれの女性としては傑出した知的エリートだったはずの彼女が、少しずつ壊れていく様子には衝撃を受けた。
それに比べると父親はかなり元気だが、「 娘はある意味充実した人生を送ったのだと思います 」という娘の葬式でのスピーチには、
もはや現実を正しく把握する知力や思考力を失い、自分が信じたいものだけを信じているような危うさを感じた。
人間の抜け殻
そしてラストシーン。
息子である監督が父親に「 なぜ姉さんをきちんと医者に診せようとしなかったのか 」と問う。
この場面は壮絶だ。
そう書くと、いかにも劇的なやり取りが交わされたかのように思われそうだが、違う。
その逆すぎて壮絶なのだ。
存命の方に対して、このような表現をするのは不適切であることは承知の上で書くが、あれを見た率直な感想は「 もはや抜け殻となった人間とのやり取り 」だった。
年齢は既に100歳近く。車椅子での生活で、脚は一切の筋肉が付いていない棒きれのようだ。
顔つきにもかつての知性は感じられない。撮影が始まってからの20年ほどで、人間はこれほどまでに老いさらばえてしまうものなのか。
姉を医者に診せなかった理由については、「 お母さんが嫌がったから 」というようなことをあっさりと言ってのける。
しかしそれはどこまで熟考した上での返事なのか。そもそも熟考するだけの能力が、この枯れ果てた肉体に残っているのか。
監督の質問に対して、それらしいことを思いつきのように語っているようにさえ見えてしまう。
個人の中にしかない真実は、しかし100歳近い老齢の前で、もはやそれが真実なのかどうかさえ分からないほどに風化し、朽ち果てている。
その恐ろしさと虚しさに鳥肌が立った。
君の輝きはどこへ消えた?
老け込むのは両親だけではない。姉の変貌も痛ましい限りだ。
10代の頃は利発そうな瞳をしていた彼女が、精神だけでなく、風貌の面でも壊れていく。
症状が酷い時期の彼女は、バサバサの髪に落ち着きのない視線や動きなど、多くの人がネガティブな形でイメージする精神病患者そのものだ。
だがより衝撃的なのは、その後の変化だ。
極端に症状が酷くなって、とうとう病院に運ばれた姉は、「 合う薬が見つかって 」拍子抜けするほど症状が改善されて戻ってくる。
その後の姉は、以前のように奇声を発することもなく、パッと見はただの大人しいおばさんに見える。
しかしやはり何かがおかしい。
以前のように、病気のせいでおかしいのではない。
30年以上にわたって外界から遠ざけられ、最後には家から一歩も出してもらえない生活を続けたため、通常の社会生活を送っている人なら意識せずとも身に付けている何かが、大きく欠落しているのだ。
まるでロボトミーを受けたあとのようだ。
確かに薬のおかげで奇妙な行動は収まっている。
カメラを向けるとピースサインをしてポーズをつけたりする。
にも関わらず、そこには本来あるはずの笑顔が見られない。
白髪のおばさんが、ほぼ無表情のままピースサインをし、ポーズをつける。その不自然さと痛々しさ。
この時点で彼女の知性がどれくらい戻っているのか(維持されているのか)は分からない。
しかし何か大きなものが欠落し、それはもう永遠に戻らないものであることが痛いほど分かる。
あの利発そうな10代の少女が、無表情のままピースサインをするロボットのようなおばさんになってしまう時の流れ。
さらに言えば、監督もだ。
10代の彼は、垢抜けないながらも、どこか愛嬌のある風貌。
それがある時点で画面に登場したとき、急に老けて白髪の目立つおじさんになっている。
さらに息を呑んだのがラストシーンだ。
父親にインタビューをする監督が、驚くほど太っていたのだ。
広角レンズのせいで実際以上に太って見えたという部分もあるだろうが、それにしても非常に不健康そうな太り方で、軽い衝撃を受けた。
しかもその姿が枯木のように老いさらばえた父親と強烈な対比を成している。
そんな2人の対比を見ただけで、このやり取りが真実を突くようなものにならなさそうだと、視覚的に直感してしまう。
テクノロジーの進歩では撮せない真実
どんなドキュメンタリーでも、ある人物の過去の写真や映像が出てくるのはめずらしいことではない。
しかしこのような形で、1本の映画用に撮影されているだけでも20年以上、両親たちのホームムービーから数えれば実に60年にもわたって、登場人物の老いの過程が克明に描かれた作品は他に記憶がない。
4人の家族が、四者四様に、決して理想的とは言えぬ形で年老い、死んでいく。
不可逆的で後戻りできない時の流れの残酷さ。その中で、監督が聞きたいと思っていた真実も少しずつ朽ち果てていく虚しさ。
時間の流れについてもう一つ興味深かったのは、映像メディアの変遷だ。
白黒写真、色褪せたカラー写真、そして両親のホームムービー(多分8mmフィルム)、本格的に撮影を開始した時期のアナログビデオ、スマホの映像、そして最新のデジタル映像。
あとになればなるほど映像も音も鮮明になっていく。
だがそれとは裏腹に、被写体となる人物は年老いて心身ともに衰えていくという皮肉。
メディアの記録性能はどんどん高まっているが、いかにテクノロジーを駆使しても撮しようがない真実があるのだ。
私がこの作品を見て最も心に残ったのは、そんな時の流れの残酷さである。

文・ライター:ぼのぼの
「 HIKIKOMORI フランス・日本 」ひきこもりは全国で140万人以上という驚愕の事実