【 舞台挨拶レポあり 】「 新居浜ひかり物語 青いライオン 」感想レビュー、療育が変えた親子の未来

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もしもあなたのお子さんが自閉症だと分かったら、優しく包み込んで育てますか?

それとも、心を鬼にして厳しく育てますか?

「 知識ある愛 」で厳しく育てることを選んだ母親は、やがて我が子が10歳になったとき、天国へと旅立ちました。

子育てに正解はありません。

しかし、この母が選んだ道は正しかったのか、間違っていたのか、映画を見て感じてください。

目次

新居浜ひかり物語 青いライオン

©2024 RSK 山陽放送株式会社

公開日

2024年11月15日

池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

上映時間

80分

予告編

キャスト

  • 三好聡浩(監督・脚本)  
  • 平松咲季(監督・脚本)  
  • 石村嘉成
  • 小林章子
  • 藤原康典
  • 高原幸之介
  • 中本真維
  • 八木景子
  • 石村和徳
  • 檀ふみ
  • 竹下景子

公式サイト

新居浜ひかり物語 青いライオン

舞台挨拶レポート

舞台挨拶での嘉成さん

2024年11月14日、池袋のシネマ・ロサで、映画「 新居浜ひかり物語 青いライオン 」の舞台挨拶が行われました。

映画の主人公である嘉成さんは、2013年第2回新エコールドパリ浮世・絵展ドローイングコンクールで優秀賞を受賞。

現在、画家として活躍中で、全国各地で行われる個展はいつも大盛況。

物怖じせず、誰とでも写真を撮るサービス精神に溢れた青年です。

その彼が舞台に上がり、大きな声で会場の後ろまで届くように、

「 皆さん、こんばんは。お母ちゃんのおかげで 」…声を詰まらせつつ続けます。

「 こんな立派な映画ができました 」

一生懸命観客に話しかける嘉成さんは、ぐっと涙をこらえるように、顔をクシャクシャにして、今度は強く目を見開きます。

「 お母ちゃん、ありがとう! 」観客の拍手に包まれて、嘉成さんは深く頭を下げました。

作中で小林さん(嘉成さんの母・有希子さん役のアナウンサー)が身に付けていたものには、

実際の有希子さんの洋服も多く登場し、その度に父・和徳さんは「 あ、有希ちゃんや 」と思ったそうです。

そして「 きっとこの会場のどこかに有希ちゃんがおる 」と涙しました。

※この物語は現在の嘉成さんと幼少期の嘉成さん(子役)とが交錯する映画とドキュメンタリーの融合作品です

道端に寝転がってダンゴムシを見て一日が終わる

嘉成さんは1994年生まれ。2歳で自閉症と診断されるまで、有希子さんは嘉成さんを連れて、いくつもの病院を回りました。

その度に、

「 大切なのはスキンシップ 」

「 焦らず声掛けしましょう 」

「 お母さんの愛がお子さんを救うんです、愛ですよ 」と言われ、違和感を抱いていました。

自分の愛情不足が我が子の発達を遅らせたのだろうかと悩んだことでしょう。

それでも有希子さんは諦めず、毎日、嘉成さんと向き合いました。

真夏、日傘をさした有希子さんは、嘉成くんと手を繋いで歩いています。

すると急に走り出した嘉成さん。

道の端に寝転がり、動かず、今度はグルグルと回り出す。

それを繰り返す嘉成さんを、有希子さんは何時間も黙って見つめていました。

そろそろ帰ることを促す有希子さんに、体をバタバタとさせて抵抗し、泣きわめく嘉成さん。

いよいよ有希子さんの表情も険しくなり、「 嘉成! 」と怒ってしまいました。

あなたは、知識ある愛で療育者になるんです

病院に行ったある日の夜、帰宅した父の和徳さんが「 どうだった? 」と有希子さんに尋ねます。

「 うーん、3割かな、でももう行かない 」

3割とは、有希子さんが医者に抱いた感覚を数字で表しています。

その傍らには、床に寝転がり、ミニカーをきっちりと揃えて並べる嘉成さんがいました。

(一番近くにいる自分の息子なのに伝わらない、こんなに遠い)

有希子さんの静かな心の声が流れました。

やがて、運命の出会いが有希子さんに変化をもたらします。

決して妥協せず、嘉成さんにとってベストな環境を探し続ける有希子さんの前に、

やっと10割、つまり信頼できる人が現れたのです。

その人とは、独自の理論で自閉症の子どもとその親を導く療育者・河島先生です。

自閉症だからといって社会性が身に付かないとは考えない河島先生は、

自閉症だからこそ、今のうちから適切な” 療育 “が必要だと説きます。

「 泣いているのは嫌だという意思表示 」という河島先生の言葉に有希子さんは深く頷きます。

「 知識ある愛で、お母さんがまず療育者になるんです 」

その、「 知識ある愛 」という言葉が有希子さんを変えていきました。

河島先生についていこうと決めた有希子さんは、家でも療育を開始しました。

嫌がる息子にカードを使って言葉を教え、発語を促します。

「 数字が読めれば時計が読めるようになり、時間の感覚も身に付きます 」と河島先生が言えば、数字を学ぶ知育玩具を手作りします。

根気強く嘉成さんに数字を教える有希子さんの姿は、必死という言葉では表現できません。

「 普通の子育てではない。丁寧に、決して譲らず、そして叱りもしない 」

河島先生の言葉を胸に、有希子さんは嘉成さんを、命を懸けて療育していきました。

療育は教育現場なのか、それとも生きる力を授ける場所なのか

この物語のもう一つの大きなテーマは「 療育 」です。

療育という言葉は今でこそ聞くことも増えましたが、当時はまだその存在はめずらしいものでした。

療育とは、発達障害やその可能性がある子どもに、個々に応じた適切な指導をすることです。

この療育がなかったら、嘉成さんやご家族はずっとさまよい続けていたでしょう。

嘉成さんの成長を促すために、知識ある愛で正しく、そして何より厳しく接することが、

この療育施設のやり方であり、河島先生の愛でした。

療育は教育現場ではありませんでした。

親が他界したあとも、子どもが自立して生きていけるように、その訓練をする場所だったのです。

とても実践的で、寄り添いながら進むこの療育があったからこそ、

元気で明るく礼儀正しい嘉成さんという人間が形成されたのだと分かりました。

嘉成さんはだんだんと人の指示が聞けるようになり、社会性を身に付けていきました。

その過程で、動物園に足繁く通い、ライオンに興味を持ちます。

自宅の冷蔵庫には、嘉成さんが描いたたくさんの動物の絵が飾られていきました。

「 百獣の王、ライオン。実は落ち着きもあり、賢く、性格も穏やか 」であることを知った有希子さんは、

どうして息子がライオンを好きなのか分かるようになっていきました。

きっとライオンと嘉成さんが似ていると思ったのでしょう。

強くて優しいライオンに柵は要らない

いよいよ嘉成さんは小学校入学を控える頃になりました。

見学に行った小学校の支援学級の庭には、柵が建てられていました。

「 近くに海があるから仕方ないんです。職員が目を離した隙に出ていくことがあったら大変ですから 」

と担当の先生から説明を受けた有希子さんは、切なそうに柵を見つめました。

保育園でその話をすると、保育士さんが言いました。

「 どうして私たちがヨシくんをこの保育園で預かったか分かりますか?ヨシくんなら大丈夫、やっていけると思ったからです 」

この言葉を受けて有希子さんと和徳さんは、公立小の校長に直談判します。

もしかしたら支援級の方が楽な場合もあります。

無理して普通学級に入れても本人がつらい場合もあります。

それでも有希子さんは、嘉成さんが保育園で育んできた「 集団の力 」を信じて校長に頼み込むのです。

校長に「 学校は多様な社会の縮図でありたい、ですが今の嘉成くんを受け入れることはできません 」

ときっぱりと言われても、有希子さんは引き下がりませんでした。

寝転がってダンゴムシと遊ぶ息子をただただ見ているだけの有希子さんではなくなっていました。

嘉成さんと共に強くなっていました。

「 私が一日、付き添うのはどうでしょう。登校から下校まで授業中も付き添います」

前のめりになって校長を説得する有希子さんを、隣の和徳さんは黙って見つめ、そして一緒に頭を下げます。

「お願いします」

「 この件はいったん、預からせてください 」と校長は言いましたが、

無事に嘉成さんは普通学級で小学校生活をスタートさせることができました。

校長はそれからも、嘉成さんと有希子さんの理解者として学校生活を見守っていきました。

いつまでですか。私はいつまで生きられますか

学校生活の中でトラブルはあるものの、周囲の理解と協力で、集団性を身に付けていった嘉成さんに、

「 普通学級でよかった 」と有希子さんは思っていたことでしょう。

そんなある日、有希子さんに悪性の癌が見つかります。嘉成さんが9歳のときでした。

有希子さんは無表情、口を小さく開けながら医師に尋ねました。

「 いつまでですか 」

余命を尋ねる有希子さんの後ろ姿、その足元で、嘉成さんはおもちゃで遊んでいました。

おそらく嘉成さんは最後まで、有希子さんの病気の意味が分かっていなかったかもしれません。

有希子さんが亡くなったシーンは特に描かれていませんでした。

その代わり、29歳の嘉成さんが毎朝、有希子さんのお墓参りをするシーンがその死を示唆していました。

「 お母ちゃん、今日も頑張って描きます。たゆまず描きます 」

嘉成さんは「 形は正確に、色は何でもいい 」と彼の色彩感覚に可能性を見つけた絵の先生の指導もあり、

画家として大きな舞台で活躍するようになっていました。

コスモス畑で父と息子が母に捧げる言葉

「 楽しかったけど、つらいこともあった。ジッとしていることができなくて、先生の言っていることが分からなくて」

そう言う嘉成さんに、和徳さんは黙って前を見てコスモス畑を歩きます。

和徳さんの視線の先には、有希子さんが見えていたのかもしれません。

嘉成さんと和徳さんが有希子さんを失った悲しみは描かれていませんでした。

強くて優しいライオンは、泣く姿を視聴者に見せたくなかったのかもしれません。

その代わり、父子で一生懸命サイクリングをするシーンでは、力強く成長した嘉成さんがいました。

前を走る嘉成さんの背中に向かって「 待って、ヨシくん。お父ちゃんは年やから 」と必死で追いかける和徳さんと、

自転車を漕ぎ続ける嘉成さん。

これからも父子二人三脚は続きます。

有希子さんが選択した、知識ある愛で厳しく育てた結果、嘉成さんは開花しました。

有希子さんの選択は間違っていませんでした。

執筆者

文・ライター:栗秋美穂

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