穏やかなシーンであった。
一人の男性が馬に乗って何か話している。
「 見捨てちゃいけない、ただそれだけですよね 」
訥々と、時にカメラの向こうを見ながら答えるその人は医師、中村哲先生。
35年という壮大な時間をかけたドキュメンタリー映画「 荒野に希望の灯をともす 」の主人公である。
先生が初めてパキスタンを訪れたのは1978年、7,000m峰であるティリチミールの登山隊に帯同する医師としてだった。
趣味であった登山、大好きな昆虫を見に行く。当時はそんな気持ちであった。
しかし麓の村に医師はおらず、先生の元へ集まる人で長蛇の列ができた。
重度のハンセン病患者、トラコーマで失明寸前の老婆…。
治療したい。しかし薬は登山隊のために取っておかなくてはならない。
もしかしたら、これが先生の苦悩の始まりだったのかもしれない。
荒野に希望の灯をともす

あらすじ
アフガニスタンとパキスタンで35年に渡り、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた、医師・中村哲。戦火の中で病を治し、井戸を掘り、用水路を建設した。なぜ医者が井戸を掘り、用水路を建設したのか?そして中村は何を考え、何を目指したのか?(公式サイトより引用)
公開日
2022年7月23日
上映時間
90分
予告編
キャスト
- 谷津賢二(監督)
- 中村哲
公式サイト
医師でありながら、井戸掘りに挑む理由

1998年、先生はアフガニスタンに診療所を建設した。
ハンセン病患者のあまりの多さに愕然とするが、顔には表さない。いや、出せなかったのかもしれない。
何日も高熱にうなされた赤子を抱いて歩き続けた母親。
しかし、やっと辿り着いた中村医師の診療所には、瀕死の人々が列をなしていた。
そしてふとわが子を見ると、既に息を引き取っていた。
そのような光景は、診療所では珍しくなかった。
病の根本的な問題として、栄養失調という問題があった。
干ばつに見舞われた現地には水がなく、畑は干からび、農業ができなくなっていた。
仕事を失った男たちの中には、鍬を銃に持ち替えるものもいた。傭兵になって金を稼ぎ、家族を養うために。
先生は思い切って、井戸を掘る決心をする。豊かな水があれば、農業ができる。
「 栄養失調がなくなれば現地の病気の8~9割はなくなる」と考えていた。
医師としてできることの前に、まずは人としてできることを考え、未経験の井戸掘りに挑むのである。
それはまさに「 見捨てちゃいけない 」という先生の信念が突き動かした行動だ。
しかし、650個掘った井戸はどれも、時間の経過とともに水が枯れた。干ばつには耐えられなかったのだ。
「 あの世でまっとれ 」
2001年9月11日、アメリカのワールドトレードセンタービルに、イスラム教徒のテロリストがハイジャックした飛行機が突っ込むという前代未聞の大事件が起きた。
アメリカは、テロリストをかくまっているというアフガニスタンを攻撃することを決定。
日本はどうすべきかを決めるにあたり、参考人として意見を聞くため中村先生を国会に呼んだ。
先生は「 アフガニスタンを攻撃することは、百害あって一利なし 」と、強く断言した。
しかし、先生の訴えも虚しく、アメリカはアフガニスタンを攻撃。現地の罪なき人々が紛争に巻き込まれていく。
そんな最中、先生の10歳になる次男は脳腫瘍で余命宣告を受けていた。
しかし、たくさんの全国の支援者への報告とお礼回りで家族のもとにも行けない。
新幹線の窓の外を見る先生。
我が子が目の前で死んでいく親たちの姿を嫌というほど見てきた先生は、もしかしたら泣いてはいけないと思ったのかもしれない。
2002年、次男は天国へと旅立った。普段は穏やかな先生が、激情を著作に記している。
「 見とれ、お前の弔いは必ずする、あの世で待っとれ 」
どれだけの苦しみと悲しみを押し殺した言葉であったか。
10歳の息子を持つ私は、今は亡き俳優・石橋蓮司のナレーションが、中村先生が荒野を見つめて叫んだ声に聞こえて、一瞬、激しい動機に襲われた。
15万人を救った「 緑の大地 」
先生は再びアフガニスタンに戻り、「 緑の大地計画 」を発表する。
7000m峰の雪解け水をたたえる大河クナールから、灌漑用の用水路を引くという壮大な計画だ。
先生自ら土木工学を勉強し、自らショベルカーを操り、先頭に立って計画を進めた。
しかし、はじめはなかなか思うように川の流れを変えることができない。
先生は故郷・福岡に流れる” 暴れ川 “とも称される筑後川から用水路を引く山田堰の構造にヒントを得る。
江戸時代に作られた堰の構造を、アフガニスタンの大河に応用したのだ。
やがて、話を聞きつけた男たちが現地に戻ってくるようになった。
かつて現地の人は言った。
「 その時の気分で人助けをして、また日本へ帰るんだろう 」と。
その時、間髪おかずに先生は穏やかないつもの口調で答えた。
「 帰りません、ずっといます 」
信頼関係は一朝一夕には築けない。
「 帰りません 」という約束を守る先生のもとに、今度は銃を鶴嘴に持ち替えた男たちが集い、自らの大地を復活させる大事業に汗を流したのである。
用水路を作る彼らの上空には、アメリカ軍の攻撃用ヘリが飛び、威嚇射撃されることもあった。
先生は絶望も苦悩も感じているはずだった。それでも自分のしていることをはにかみながら顧みる。
「 医者なのに、何やってんだろう 」と。
そこには医師ではなく、一人の人間の姿があった。
2007年、用水路は13kmの長さに到達した。
その後、27kmまで伸び、茶色一色だった不毛の地は文字通り、 緑の大地へと変貌。
およそ15万人以上の難民が故郷へと帰った。
豊かな水が小麦、サトウキビなどを育み、ヤギの乳からは伝統のチーズが作られた。
かつて診療所で聞いた泣きわめく赤ん坊の声は、甘い菓子を頬張る子どもの笑い声に変わっていた。
中村先生は、完成した用水路で水遊びをする現地の子どもを見たとき、夭逝した次男がそこにいるような錯覚に陥ったという。
先生の弔い合戦は、勝利に終わったのである。
人間は自然のおこぼれをもらって生きている
先生は映画の中で「 人間は自然のおこぼれをもらって生きている 」と言った。
人間は自然をコントロールできない。自然に生かされている存在である。
「 自然は誰に対しても平等である。だからこそ、私は目の前の命を大切にしたい 」と。
アメリカはテロリストに対する報復でアフガニスタンを攻撃した。
民主主義という「 正義 」を、イスラムの国に「 広める 」ことが世界の平和に繋がると訴えた。
抑圧されたイスラム諸国が反発し、さらに悲劇の連鎖を生む。
そんな憎しみが憎しみを呼ぶ世界で、中村先生は目の前の命を守ることに全力を尽くした。
中村先生はクリスチャンである。しかし、イスラム教徒を尊重した。
2010年、先生はモスクを建て、その隣に学校を作った。誰もが無料で国語と算数とイスラムの教えを学べるように。
授業を受ける子どもたちの目は本当に澄んでいた。そして「 一言も逃すまい 」という力強さも湛えていた。
安心して生きていける場所と教育を提供することが、長い目で見て平和の礎を築いていくことを、中村先生は熟知していたのだろう。
その後、大洪水によって用水路は土砂で埋め尽くされた。
それでも先生は不屈の精神で立ち上がり、見事復興を遂げる。
衰えを知らない情熱で用水路の建設を進めていた2019年、先生とスタッフ5人はアフガニスタンのジャララバードで何者かの凶弾によって倒れた。73歳だった。
先生が愛したものたち
先生はモーツァルトがお好きだった。イヤホンをしているときはいつも聴いていたという。
作品の中で流れていた曲は「 アヴェ・ヴェルム・コルプス 」
先生が一番お好きだったこの曲の演奏を録音するため、監督の谷津賢二さんは福岡を訪れた。
そこには先生の長女でピアニストの中村幸さんがいるからだ。
どんな気持ちで幸さんがこの曲を弾いたのかは、想像しかできない。
悲しみ、怒り、そして尊敬の入り混じった複雑な気持ちでいたに違いない。
1,000時間にも及ぶ記録を編集した谷津監督は作品上映後、皆の前で語った。
今も生きている古くからの友人を紹介するように、時折、笑顔を見せて中村先生との思い出を話した。
そこにもアフガニスタンの人たちと同じように、確実に信頼関係があり、監督の中で中村哲という人は未だに生き続けているのだろうと思った。
その思い出話の中の一コマを紹介しよう。
ある日、飲酒禁止のイスラム教の国において、先生の部屋を訪れた監督は一緒にコーヒーを飲んだという。
ふと見た傍らの本棚には漫画「 クレヨンしんちゃん 」が全巻揃っていたそうだ。
天災その他、人間の力ではどうにもならない事情があり、物事がうまく進まないとき、人はあえて、笑いに救いを求める。
笑わないとやっていられないのだ。
そういう意味では、偉業を成し遂げた医師・中村哲も、普通の人間であったと言えるだろう。
モーツァルトとしんちゃんを愛した先生、どんな人よりも人間臭い人だったように、私には思えた。
いや、本来の「 一人の人間 」だからこそ、見捨てちゃいけないという強い気持ちがあったのだと分かった。
何かをどこかに忘れてきた私たち
この映画を通して、人間の本質を改めて考えさせられた。
私は、私たちは何かをどこかに忘れてきている。
失敗した人がいれば、関係ない輩が出てきて、そのストレスを発散するかのように誹謗中傷する現代において、
母として、人として、我が子に授けなけらばいけないことは何だろう。
当たり前だが「 見捨てちゃおけないから困った人を助ける 」その心なのだと痛感した。
夭逝した先生の次男と同い年の息子を育てている私は、色んなところで「 プログラミング 」「 アクティブラーニング 」「 グローバル 」という言葉を聞くが、
本当に必要なのは、パソコンのスキルでも能動的に学ぶことでも世界に目を向けることだけでもない。
それは「 習う 」ものではない。
そのようなことは「 見捨てちゃいけない 」という心があれば、自然と培われるものなのだ。

文・ライター:栗秋美穂