ライフサークル(安楽死の条件4つ)
- 耐え難い苦痛(身体的・精神的を含む)
- 回復の見込みがない
- 治療の代替え手段がない
- 明確な意思表示
ライフサークル 〜 不治の病で苦しむ人らへの自殺ほう助を行う団体として2011年に設立された。
短い間だったけど、親友だったわ

2022年12月15日、一人の日本人女性、迎田良子(むかいだりょうこ)さんが、スイスのジュネーブで安楽死を遂げた。享年64歳。
「 短い間だったけど、親友だったわ 」この言葉は、彼女の安楽死を手伝った医師エリカ・プライシックさんに告げた最後の言葉である。
親友、真友、心友。彼女にもし、このような存在がいたら、今回の選択はなかったかもしれない。いや、今さらそれを言っても仕方ない。迎田さんはライフサークルの条件を満たしていた。
そして何よりも……最期の場所へと向かうタクシーの中で、迎田さんが言ったこと。
「 私は苦しみを背負って生きていくことに、意義を感じない 」
彼女がいかに病と闘ってきたか、その痛みに苦しんで来たかが分かる。病の名は「 パーキンソン病 」難病であるが、それだけで死に至ることはない。
しかし、手足の震えや身体のこわばりなど、薬を飲んでも痛みは続く。本作品で迎田さんは語っている。「 痛みと不快感、耐えられない。進行しかないこの先 」
顔色も良く、明瞭に話し、時に笑顔も見られる彼女に、私は最初、病の影を見つけることができなかった。
迎田さんは「 日本で安楽死を討論してほしい 」との思いから、2022年1月、当時TBSロンドン特派員だった西村匡史さんに1通のメールを送った。
この西村さんこそ、前述のタクシーの中での会話相手である。
約1年、zoomやメールでやり取りをし、時に「 安楽死を思い直してくれないか 」と説得し、たくさん語り合った「 新友 」西村さんと彼女の物語。その軌跡を考察する。
※このドキュメンタリーは決して安楽死を肯定するものではありません。
安楽死という目的ができた

迎田さんの育った家庭環境は恵まれたものではなかった。
それを西村さんに語るシーンは、本作で見てほしいのだが、私にはそれがまるで「 他人 」のことを話しているように見えた。
家族への「 情 」といったようなものは感じられなかった。淡々と事実を述べているだけだった。
それでも、昔のアルバムから、震えの止まらない手で必死に写真を撮りだし、それを西村さんに見せる彼女は嬉しそうだった。
多感な時期だったと語り、さまざまな体験を語る。海外での暮らしや旅行が好きだったようだ。
実際、最期の地となったスイスでも流暢な英語を話していた。
本作品の中で、迎田さんの話は常にあっさりとしていた。
西村さんが「 安楽死が決まった時の気持ちはどのようなものでしたか 」と聞いた時でさえ、「 安楽死という目的ができたの。そうしたら友人に手紙を書いたり、感謝の気持ちも出てきた 」
ほかに彼女から出てきた言葉は「 やり遂げる、満足感、安楽死は自分への労い 」その様な前向きなものばかりだった。
後悔も不安も見当たらない
好きなことをした。貯金もできた。後悔はない。迎田さんからは本当に前向きな言葉しか出てこなかった。私は彼女の表情に一抹の後悔があるのではないかと画面を凝視した。しかし見つからなかった。
この人は本当に「ただ、安楽死を議論してほしい」それだけが願いなのだと、段々と心のそこから理解していった。自分の生い立ちを知ってほしいとか、誰かに見届けてほしいとか、そういった感情はまるでない。
ただ、選択肢のひとつとして安楽死があることを知ってほしい、それが彼女の最後の仕事といわんばかりだった。
クロワッサンと紅茶
「 おかしいでしょう。こんな時に私、クロワッサン食べてる 」と最期を迎える部屋で彼女が笑う。そして片手で持ち上げた紅茶カップ。
手が震えずに飲めた。とても幸せそうに紅茶を飲む彼女を見た時、初めて「 これで良かったんだ 」と視聴者である私も思えた。
迎田さん自身「 誰でも死んでいいとは限らない 」と言っている。決して自分の決めた行動を勧めてはいない。しかし、生きる権利があるなら死ぬ権利もある。私はふと、そう思った。
読者の皆さま、どうか迎田さんの最期を劇場で見届けてください。そして迎田さんの最期の願い「 安楽死を議論 」しようと思ってくれたら、天国で彼女はやっと、感情を露わにして喜ぶでしょう。
もしそれができなくてもいい。でも彼女のこの言葉を受け取ってください。「 考え方にも権利はある 」人は皆、さまざまな権利を持っているのです。

第5回TBSドキュメンタリー映画祭のスケジュールはこちらからご確認ください。
西村匡史監督インタビュー

西村匡史(にしむらただし)1977年4月28日生まれ、新潟県出身、東京都育ち。2003年にTBS入社。報道局社会部で警視庁、横浜支局、検察庁、裁判所を担当。「 NEWS23 」、司法キャップを経てロンドン特派員として安楽死を取材。現在、「 報道特集 」の記者。事件、事故、震災、戦争、自死などの被害者取材から、死刑囚やその家族などの加害者側の取材まで、一貫して「いのち」をテーマにした特集を手掛ける。
主なドキュメンタリー作品に「 8.12日航ジャンボ機 墜落事故30年の真相 」、「 世界一寛容なノルウェー刑務所 ~77人殺害テロ事件遺族の葛藤~ 」、「 ボスニア紛争 ~8000人犠牲のスレブレニツァ虐殺現場の今~ 」、「 遅すぎることはなかった ~オランダ戦後75年の補償~ 」など。
映画監督として「 死刑囚に会い続ける男 」、「 さっちゃん最後のメッセージ ~地下鉄サリン被害者家族の25年~ 」を制作。「 報道特集 」で放送され、大きな反響を呼んだ特集記事。「 安楽死を考える スイスで最期を迎えた日本人 生きる道を選んだ難病患者 」で、2024年の「 LINEジャーナリズム賞 」年間大賞を受賞。

ーー迎田さんと「 最期の晩餐 」と称してレストランで食事をしたと伺いました。前菜が終わり、いよいよメインディッシュとなった時、突然、彼女に異変が起きたそうですね。この「 突然 」というのがパーキンソン病の特徴であると言われていますが、その瞬間をカメラに納めなかったのはなぜでしょうか。
西村さん
「 難病である彼女が急に体調を崩してしまったので、車で休ませることを優先しました。しかし、覚悟を決めて撮影に臨んだ彼女の気持ちを考えれば、スマホでもいいから撮影して、その苦しみを映像に残すことで、安楽死を選んだ彼女の決断の重さをより良く伝えることが出来たと思います。自分の甘さです。後悔しています 」
ーー作品全体を通して、迎田さんは苦しむ姿を見せたくなかったのではないかと感じました。撮影できなかったのは、今思うと彼女の強い意志の表れのようにも感じます。
西村さん
「 この病気は外見から、その症状や辛さを理解できない。そのため、傷ついたことも多いとおっしゃっていました。熟睡には程遠い痛み、息苦しさだそうです 」
その苦しみを知っていたなら尚のこと、彼女を気遣うことは西村さんにとって最優先事項だったのではないでしょうか。
彼女が痛みに苦しむ姿を撮れなかったことはたしかに「 甘かった 」と自分を責めてしまうかもしれません。
しかし、1年間の新友が撮り続けたドキュメンタリーだからこそ、作り物ではない「 友情 」が、そこにはあったのです。
撮れなかったことが、この作品をヒューマンドキュメンタリーにしたと筆者は感じました。

文・ライター:栗秋美穂