
原作者カルロ・コッローディの「 ピノッキオの冒険 」を執筆期より半世紀ほど現代に近づけた寓話。
ストップモーションアニメの傑作と評しても過言ではない。
ピノッキオの存在は近代社会において、子供・大人と社会の関係性、普遍的な問題点を啓示している。
画像の引用元:IMdb公式サイトより
(アイキャッチ画像含む)
ギレルモ・デル・トロのピノッキオ


あらすじ
公開日
2022年11月25日
原題
Guillermo del Toro’s Pinocchio
上映時間
117分
キャスト
- ギレルモ・デル・トロ(監督)
- ユアン・マクレガー
- デヴィッド・ブラッドリー
- グレゴリー・マン
予告編
公式サイト
作品評価
- 映像
- 脚本
- キャスト
- 音楽
- リピート度
- グロ度
- 総合評価
考察レビュー


2022年の日本では3種類の「 ピノキオ 」に触れることができた。
- マッテオ・ガローネ監督・脚本・製作「 ほんとうのピノッキオ 」
- Disney+ 実写版「 ピノキオ 」
- ギレルモ・デル・トロのピノッキオ
「 ピノッキオ 」は、海外・日本でも多くの作品が作られている。
僕の世代ならタツノコプロの「 樫の木モック 」というアニメもあった。
それでも、現代日本人の多くはディズニー・アニメの「 ピノキオ 」の物語がメイン・ストリームなのだろう。
本作はギレルモ・デル・トロが原作から①の重い風刺観、②のポピュリズム観、ディズニー・アニメの幼児向け要素を割愛しつつ、物語の基本展開を主軸に、
ギレルモ・デル・トロが得意とする「 シェイプ・オブ・ウォーター 」、「 ナイトメア・アリー 」で描いた近代社会思想の疑義やキリスト教的な宗教観を強く加味し、
「 ピノッキオの冒険 」を現代的な解釈で再構築した意欲作だと感じる。
上記の考察で誤解を受けそうだけれど、監督はディズニーの世界を否定していないと考える。
ゼペットがピノッキオに伝える「 ありのままを愛する 」は、昨今のディズニー作品の「 自立 」というトータル・テーマへのリスペクトだと思える。
原作が執筆された時代は、イタリアが近代統一国家になろうと模索されていた時代であった。(約半世紀後にムッソリーニによるファシズム政治が行われる)
このような時代、一般市民の生活は一部の支配層の富と権力が集中し、人々の生活は困窮していた。
子供たちは思想や理念当の厳しい教育を受けさせられつつも、「 夢 」という名の我欲に憧れてく。
それこそがピノッキオの本質だ。
子供を揶揄すれば「 ガキ 」と呼ぶ。
ガキは「 餓鬼 」に結びつく。
貪欲は際限なく、純粋な欲望を暴走させていく。
「 子供は好きに自由に生きる 」とはネグレトではないだろうか?
子供が無邪気である真実は保護者による「 躾 」あってのこと。
「 躾 」がなければ「 邪気≒餓鬼 」となる。
ただ「 躾 」は保護者の要望希望の押し付けではなく、社会との広い交流で築かれる「 心 」だろう。
年老いたゼッペットは過ちを反省し、ピノッキオを待つのではなく、探し追いかけ求めた。
愛するがゆえに。
コオロギのクリケットは、常にピノッキオと共に寄り添い「 忠告(躾)」していった。
それでも稚拙な幼い魂は、常に自己本位に傾いていく。
悪い大人(社会)に騙され、最後はモンスターに飲み込まれてしまう。
モンスターはクジラだけなのか?
それともモンスターは国家や社会の主義と体制なのだろうか?
ピノッキオの視界に映る世界は、今を生きる僕等の社会と一切変わらず、エゴと欲望だけが輝いてるように虚飾されている。
そんな世界で生きる僕らに向けた傑作寓話である。
まとめ


ギレルモ・デル・トロは、日本漫画・アニメ・特撮カルチャーが大好きなのだと気付かされる。
本作でゼペットの息子が、第一次世界大戦の空爆に巻き込まれて死んだ息子の代わりに、ピノッキオは生み出された。
それは手塚治虫の「 鉄腕アトム 」、石ノ森章太郎の「 人造人間キカイダー 」を連想ささせてくれる。
死んだ子供の代わりに生み出された、彼等ロボットは不死の兵士とし扱われ、人間の心に寄り添おうと常に揺れ動き、苦しみ絶望と希望の間をさらす。
ピノッキオの存在は人間のエゴなのか、優しさなのか?
成長が答えを導いてくれる。