第96回アカデミー賞において、長編ドキュメンタリー賞を獲得したウクライナ映画。
ロシアのウクライナ侵攻において苛烈な戦火にさらされた街マリウポリ。
そこに残って撮影を続けたウクライナ人ジャーナリスト、ミスティスラフ・チェルノフ。
彼の目に映った悲惨な戦争の実態とは?
マリウポリの20日間
あらすじ
2022年2月、ロシアがウクライナ東部に位置するマリウポリへの侵攻を開始。
これを察知したAP通信のウクライナ人記者であるミスティスラフ・チェルノフは、仲間とともに現地に向かった。
ロシア軍の容赦のない攻撃による断水、食料供給、通信遮断…瞬く間にマリウポリは包囲されていく。
海外メディアが次々と脱出していく中、彼らはロシア軍に包囲された市内に残り、死にゆく子供たちや遺体の山、産院への爆撃など、侵攻するロシアによる残虐行為を命がけで記録し、世界に発信し続けた。
徐々に追い詰められていく中、取材班はウクライナ軍の援護によって、市内から脱出することとなる。滅びゆくマリウポリと戦争の惨状を全世界に伝えるため、チェルノフたちは辛い気持ちを抱きながらも、市民を後に残し、脱出を試みた…。(公式サイトより引用)
原題
20 Days in Mariupol
公開日
2024年4月26日
上映時間
97分
予告編
キャスト
- ミスティスラフ・チェルノフ(監督)
公式サイト
マリウポリの地獄を描く圧倒的なリアリティ
今年のアカデミー賞で、長編ドキュメンタリー賞を獲得した作品。
ウクライナ映画がアカデミー賞を受賞するのはこれが史上初だ。
2022年2月、ロシア軍の侵攻によって激しい戦火にさらされた、ウクライナ東部の街マリウポリ。
生きるためのインフラは破壊され、日常的に砲弾が降り注ぐ中、AP通信のジャーナリストであるミスティスラフ・チェルノフとそのチームはギリギリまで街に残り、その実態を映像に収めた。
彼らが撮影した戦争の惨状は、マリウポリで行われた非人道的な行為を世界に知らしめることとなる。
その映像を1本の作品としてまとめたのが、この映画だ。
言うまでもなく、ここに映し出された映像はリアルそのものだ。
戦争ドキュメンタリーと言っても、しょせんは真実の一部分を描くもの。
一歩間違えればプロパガンダに偏りすぎた作品となるし、安全圏に身を置いての撮影では戦争の実態に深く迫れるとは限らない。
例えばイラク戦争のまともなドキュメンタリーなど見たことがない。
その点この作品は、状況的に見ても余計な演出など入れようがないリアリティに満ちている。
本当に生きるか死ぬかの瀬戸際で撮られた映像であることがヒシヒシと伝わってくる。
もちろん視点は攻撃される側に固定されているので、戦争の全てを描いているわけではない。
しかし、「 マリウポリで市民が体験している地獄のような日常 」を描いた作品としては、文句なしの強靱さを持つ。
報道の義務と倫理に関する疑問
道にゴロゴロと転がる死体。
世界中を震撼させた小児科・産科病棟への爆撃…あまりに凄惨な出来事をカメラに収めることへの倫理的な問題はつきまとう。
死体の顔などにモザイクはかけられているものの、特に有名な、瀕死状態の妊婦(赤ん坊は死産で本人も死亡した)は、
果たしてあのような姿を世界に晒したいと思っていたのかどうか…釈然としない思いは残る。
しかし本作においては、それらも「 ロシア軍の残虐行為を世界に知らせ、国際社会の救いを求めるため 」という大義名分によって正当化されている。
虐殺と言って差し支えない、ロシア軍の一般市民に対する攻撃を考えれば、それは否定できないところだろう。
事実、瀕死の妊婦の姿は世界中にセンセーションを巻き起こし、ウクライナ支援の声を高める結果となったわけだから、
製作者の狙いは完全に成功したことになる。
本人がそれを望んでいたかどうかは知るよしもないが…。
良くも悪くも1人の作家の視点で描かれた作品
そのように、現代の戦禍を正面から捉えた凄まじい作品である。
だが実を言うと、期待したほど大きな感銘を受けたわけではない。
なぜか?
それはウクライナに関しては、他にも優れたドキュメンタリーがNHKなどで放送されており(本作も劇場公開前にNHK「 BS世界のドキュメンタリー 」枠で放送済み)、
その中で本作が他を寄せつけない圧倒的な作品かというと、必ずしもそうではなかったからだ。
これと同程度に優れたウクライナ/マリウポリのドキュメンタリーは他にも放送されている。
ここでポイントとなるのは、本作がミスティスラフ・チェルノフというジャーナリストの撮影した映像で構成されているのに対し、
他の多くのドキュメンタリーでは、一般市民が撮った映像が多用されているという点だ。
これはスマホによって誰もがカメラマンとなりうる時代の戦争ならではの現象だろう。
もちろんプロジャーナリストの映像の方が総体的なクオリティは高いのだが、複数の市民が撮影した映像を使用した作品では、
こちらに存在しない生々しい映像も数多く見られる。
そして要所要所ではプロの映像も使われている。
そのような作品を見たあとで本作に感じてしまう微妙な物足りなさは、全編がチェルノフの撮った映像であるが故に、多面性に欠け、
彼だけではカバーできない部分が撮されていないことによるものだ。
事実、マリウポリの中でも特に大きな惨事の現場として報じられた2つのうち、病院に関しては詳しく描かれているが、
アゾフスタリ製鉄所に関しては台詞で1回軽く触れた程度で、映像は一切存在しない。
ただしポジティブに考えれば、その多面性のなさ、あくまでも一人称によって語られるスタイルによって、本作は、
観客自身が逃げ場のない戦場に放り込まれたかのような閉塞感をもたらすことに成功している。
数あるウクライナの戦争ドキュメンタリーの中で本作が目立っているのは、「 一人の作家の視点で描かれたドキュメンタリー 」という性格の強さ、
換言すれば「 作家性 」の強さゆえだろう。
劇映画「 シビル・ウォー アメリカ最後の日 」との見事な相乗効果
そしてこの映画の2日後に、本作の評価を高める出来事が起きる。
劇映画「 シビル・ウォー アメリカ最後の日 」を、一足先に試写会で見ることができたのだ。
そちらはフィクションだが、アメリカで起きた内戦という架空の設定のもと、地獄の戦場巡りをするジャーナリスト4人の物語だ。
前半は「 地獄の黙示録 」をベースにしているが、後半は本作のフィクション版と言う他ない様相を呈している。
そして本作においてジャーナリストの視点から提示された映像が、ジャーナリストそのものも含む客観描写として提示される。
まるで本作の撮影現場を覗いているかのような興味深さだ。
全くの偶然ではあったが、この2作品を続けて見たことは、どちらの作品の評価も押し上げる、素晴らしい相乗効果を発揮していた。
本作をご覧になった方は、「 シビル・ウォー アメリカ最後の日 」の観賞も、合わせてオススメする。
排泄物と共に授かる生
なお、私が本作で最も印象に残ったシーンを挙げるとすると、医薬品もほとんど底を突いた病院での出産シーンだ。
取り上げられた子どもは真っ白で、死んでいるようにしか見えない。
しかし医者が必死にお尻などを叩く。
死産の赤ん坊をそんな風に引っぱたいて、一体どうしようというのだろう…。
叩いているうちに、赤ん坊の肛門から、タールのような黒いウンチが漏れ出してくる。
白い肌と黒い排泄物の対比が鮮烈だ。
「 ああ、こんな産まれた直後の赤ん坊でもウンチをするんだっけ? 母親の胎内にいる時、こういう排泄物はどういう風に処理されるんだ? 」と思う。
相変わらず叩き続ける医師。
すると、私の目には死んでいるとしか見えなかった赤ん坊が泣き声を上げた!
死産ではなかった。赤ん坊は生きていたのだ!
全く血の気のない小さな体から漏れ出したウンチ…その黒さが今も目に焼きついている。
明日には死ぬかもしれない戦場の中で新たに生まれた生命。
それだけでも皮肉であり、同時に感動的なのに、生命の最初の兆候が、口から漏れる泣き声ではなく肛門から漏れる排泄物だったとは…
人間の生命とは一体何なのかを考えさせられる、あまりにも暗示的なシーンだった。
赤ん坊がその後どうなったかは分からない。
願わくば、あの地獄を奇跡的に生き延び、大人になってから、平和な環境の中でこの映画を見て、
自分がこの世に産まれて最初にやったことがウンチを漏らす行為であることに苦笑いしつつ、涙を流す…
そんなことが実現してほしいものだ。