1992年、福岡市飯塚市で2人の女児が殺され山中に遺棄された「 飯塚事件 」
その犯人として捕まった久間三千年は2006年に死刑が確定。
犯行を終始否定していたにも関わらず、2008年に異例の早さで死刑が執行された。
しかし、この事件が冤罪だったという意見は根強く、死刑が執行されて十数年が経った今も、弁護団は手弁当で再審請求を続けている。
多くの謎と疑惑に包まれた飯塚事件。
10年間に及ぶ執念の撮影が、この事件にまつわる〈さまざまな正義〉をあぶり出す。
正義の行方
あらすじ
1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が殺害された「飯塚事件」。DNA型鑑定などによって犯人とされた久間三千年(くまみちとし)は、2006年に最高裁で死刑が確定、2008年に福岡拘置所で刑死した。“異例の早さ”だった。翌年には冤罪を訴える再審請求が提起され、事件の余波はいまなお続いている。
本作は、弁護士、警察官、新聞記者という立場を異にする当事者たちが語る−−−−時に激しく対立する〈真実〉と〈正義〉を突き合わせながら事件の全体像を多面的に描き、やがてこの国の司法の姿を浮き彫りにしていく。
(公式サイトより引用)
公開日
2024年4月27日
上映時間
158分
予告編
キャスト
- 木寺一孝(監督)
公式サイト
史上最高峰の邦画ドキュメンタリー
バケモノのようなドキュメンタリーである。
筆者がこれまでに見た範囲では、小林正樹の「 東京裁判 」(1983)や、原一男の「 全身小説家 」(199年)などと並び、
日本のドキュメンタリー映画の最高峰に数えたい。
驚かされるのは、これが元々はNHKのBS1スペシャルで「 正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮 」と題して放送された番組であり、
その編集を少し変えて劇場版にしたものだということだ。
NHKが普段から良質なドキュメンタリーを制作していることは確かだが、それにしてもこの深さと壮大さは群を抜く。
NHKの枠内でよくこれだけ攻めた作品を作れたものだという思いと、NHKという大組織だからこそ作れた作品だという思いが交錯する。
実に広範囲な人々、事件に直接関係した人々はもちろん、元警察庁長官・國松孝次のような社会的地位が高い人まで取材に応じているのは、
やはりNHKという金看板があってこそのことだろう。
これは余談になるが、1995年3月30日に國松氏が狙撃された事件は、その10日前に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教によるテロの一環としてセンセーショナルに報道された。
だが結局犯人は突きとめられず、時効で迷宮入り。
オウムの後継団体にあたるアレフに対し、東京都が100万円の損害賠償を支払ったという顛末には、あの時の狂躁を知る者として驚くほかない。
余談と言ったが、最初の捜査や報道、パブリックイメージが必ずしも真実とは限らないこと、
それに関わるさまざまな人間の思惑によって真実がねじ曲げられるところなど、飯塚事件と共通する部分も多い。
真実や正義を知ることの絶望的困難
作品は、久間三千年の妻や弁護団、福岡県警の関係者、そして当時詳しい報道を行った西日本新聞のジャーナリストたちを3つの大きな柱に、
さまざまな角度から、この事件と久間が逮捕され死刑になるまでの経緯を描いていく。
しかしくれぐれも誤解してはならない。
これは飯塚事件の真相を突きとめることを主眼にした作品ではないし、ましてや「 久間三千年は冤罪であり警察と司法の犠牲者 」だと訴える作品ではないということだ。
それについては〈これは私たちの「 羅生門 」〉というキャッチコピーが深く本質を突いている。
関係者にはそれぞれにとっての真実、言い換えるなら〈視点〉〈価値観〉〈利害〉といったものがある。
決定的な証拠や犯人の自供がないこのような事件においては、各人の主張のぶつかり合い、その力関係によって〈真実〉と、それを根拠とした〈正義〉が決まってしまう。
それが〈(本当の意味での)真実〉かどうか疑問があってもだ。
この作品は「 飯塚事件の真実は何だったのか 」を問う作品ではない。
「 飯塚事件を通して、人が本当の意味での〈真実〉や〈正義〉を知ることの絶望的な困難 」を描いた作品なのだ。
ドストエフスキーが、下世話な殺人事件を題材に「 罪と罰 」や「 カラマーゾフの兄弟 」を書き上げたのと同様、
この映画は一つの事件を題材に、哲学的で深遠な問題に迫っている。
自分の人生を肯定してくれるものが真実なのか?
見ていて特に興味深かった点がある。
取材した関係者の多くは、事件に深く関わり、いわば事件によって人生を変えられた人たちだ。
そして久間三千年をクロとみなすかシロとみなすかという立場に関係なく、少なからぬ人々に共通しているように見えたものがある。
「 この事件の真実がこうでなければ、自分の過去の行い、これまでの人生は何だったのか? 」という思い、
そこから必然的に導き出される「 別の真実を認めることは、自分の人生の否定に繋がってしまう 」という恐れだ。
つまり、関係者の人生と事件が切り離せないものになったとき、〈事件の真実(だと思うもの)〉が、その人のアイデンティティそのものになってしまう。
「 何が真実か 」ではなく、「 自分の人生を肯定するものが真実であってほしい 」と願い、それと合致するものだけを見るようになり、
結果的には「 自分の人生を肯定するものが真実である 」というところに到達する…人は自分が見たいものしか見えない生き物なのである。
自らの人生を否定する勇気
そうであればこそ、事件から26年が経った2018年に、西日本新聞が「 当時の自分たちの報道に誤りがあったのではないか 」という検証記事を連載したことは、
本作において大きな希望の光となっている。
それは久間三千年の死刑が執行された後であり、もちろん遅すぎる。
いかに直接の関係者でなくても、同じ新聞社内での再検証が、どこまで厳正中立なものとなりえたかにも多少の疑念は残る。
しかし、過去の間違いを認める勇気、自分の人生を否定する結果になってでも真実を求める姿勢…。
〈正義の行方〉はその中にしか存在しないように思えるからだ。