日本映画界屈指のヒットメーカーである坂元裕二と塚原あゆ子。
そこに実力派の松たか子が加わったSFタッチのラブストーリーが、多くの人の感動を呼んでいる。
しかし筆者が見る限り、その設定も展開もご都合主義の塊。
ずばり「 結婚詐欺のような映画 」だった。
本記事はネタバレを含みます。閲覧の際はご注意ください。
ファーストキス 1ST KISS

あらすじ
結婚して15年になるカンナは、ある日、夫の駈を事故で失ってしまう。いつしか夫婦生活はすれ違っていて、離婚話も出ていたが、思ってもいなかった別れ。しかしカンナは、駈とこちらも思ってもいなかった再会を果たす。しかもそこにいたのは、初めて出会ったときの駈。
ひょんなことから、彼と出会った15年前の夏にタイムトラベルしてしまったカンナは、若き日の駈を見て思う。やっぱりわたしはこの人が好きだ。まだ夫にはなっていない駈と出会い、カンナは再び恋に落ちる。
時間を行き来しながら、20代の駈と気持ちを重ね合わせていく40代のカンナ。事故死してしまう彼の未来を変えたい。過去が変われば未来も書き換えられることを知ったカンナは、思い至る。わたしたちは結婚して、15年後にあなたは死んだ……だったら答えは簡単。
駈への想いとともに、行き着いた答え。
わたしたちは出会わない。結婚しない。
たとえ、もう二度と会えなくてもーー 。
(公式サイトより引用)
公開日
2025年2月7日
上映時間
124分
予告編
キャスト
- 塚原あゆ子(監督)
- 松たか子
- 松村北斗
- 吉岡里帆
- 森七菜
- YOU
- 竹原ピストル
- 松田大輔
- 和田雅成
- 鈴木慶一
- 神野三鈴
- リリー・フランキー
公式サイト
絶賛の声に溢れる映画だが…

予告編を見ても何も惹かれる部分はなかったのだが、公開直前から多くの絶賛評が伝わってきた。
その上撮影は、現在の日本映画界でナンバーワンの天才だと思っている四宮秀俊。
これはやはり見ておくべきかと思って見に行ったのだが、あまりの嘘臭さと論理性の欠如に、久しぶりに腹を立てながら劇場をあとにすることになった。
こういう作品に感動する人がいるのは理解できる。
そういう人たちは、私が抱いたような不満はそもそも気にも止めていないのだろう。
だが、このまま「 映画には色々な見方がある 」で済ませたら、「 映画の作劇はこのような嘘っぱちでも構わない。どうせ観客はそんな論理的なことは気にしない 」という風潮を強め、
裸の王様を増長させることになるのではと不安になるので、やはり書くことにする。
炎上案件かもしれないが、この映画を絶賛する人がその美点を語るのと同様に、私はこの映画に対する不満を述べる。
前者が許されて、後者が許されない理屈などないはずだ。
以下、かなりのネタバレがあるので、観賞後に読まれることをおすすめします。
あまりに低すぎるリアリティライン
見始めてすぐに、作劇のリアリティラインの低さにげんなりした。
あんなに簡単なことで何度も同じ時空間にタイムスリップできるのは、そういう世界観なのでよしとしよう。
ただ、そういう馬鹿げた嘘を受け入れさせるには、細かい部分をリアリティのある描写で補強していくことが欠かせない。
それによって大きな嘘も本当らしく見えるものだ。
ところがこの作品は細かな部分からして嘘だらけだ。
ごく一例(あくまでもほんのごく一例)として、最初にタイムスリップしたときの描写を取り上げよう。
カンナ(松たか子)は車を捨てて走り出す。「 現在 」の世界は冬で、タイムスリップした先は夏だ。
だからすぐに「 暑い 」と分かるのに、余計な服を脱がず、マフラーまで持って走り出す。
なぜだ?理由は分からない。
そもそもなぜそこでカンナが車を乗り捨てて走り出すのかが分からない。
暑いなら車で目的地まで行けばいいではないか。あそこで冬服のまま走り出す意味は何なんだ?
それに彼女は、なぜあそこがあの場所だと瞬時にして分かったのか?
後の描写を見る限り、15年前の彼女は電車で着いたので、あの道を車で通ったことはないはずだ。
仮に通ったことがあるとして、この状況下で15年も前に通ったことのある郊外の道を、瞬時に「 あの道だ 」と思い出すことなどありえまい。
季節も場所も時間も違うところにいきなり放り出された驚きで、それどころではないというのが普通の人間の心理だ。
それを納得させるためには、後の方で「 なるほど、それで彼女はあそこで走り出したのか 」と思わせる仕掛けが必要だが、そんなものはどこにもない。
しかも後の方ではちゃんとホテルの駐車場に車を止めている。
だったらますます最初のタイムスリップ時に、車を乗り捨てて走り出した意味が分からない。
その後ホテルに辿り着いてからの描写も茶番だらけだ。
そんな具合に、最初のタイムスリップ部分だけを取り上げても、これだけリアリティのかけらもない描写の連続だ。
このような細部の問題点を挙げていったらキリがないので、もっと大きな作劇上の問題を3つだけ指摘していこう。
君たちは離婚するほど冷え切った関係だったのでは?
1つ目。
私は予告編などを見たとき「 愛する夫を死から救うために、タイムスリップした松たか子が奔走する物語 」だと思い込んでいた。
ところが実際に見てみると大分違う。
カンナと駈(松村北斗)の夫婦は、結婚後しばらくするとすれ違いばかりとなって関係は冷え切り、駈が事故に遭ったのは離婚届を出す日だったのだ。
もちろん離婚することになっていても、15年もの歳月をともに過ごした夫婦だ。
互いに人生の一部になっているし、44歳の若さで死んでほしくはないと思っているだろう。
だが、その死をきっかけに、駈への愛情が再燃したり、結婚生活に対する後悔が芽生えたりという描写はない。
駈の死後には「 せめて(離婚)届けを出した後にしてよね 」と言うし、「 夫婦愛 」をメインテーマにしたドラマは鼻で笑って拒否する。
タイムスリップ願望も、決して夫婦生活をやり直そうとしたかったのではなく、「 餃子を焼く前に戻りたいと思っただけ 」なのだ。
そんな状況で、若い頃の初々しい駈に出会って愛情が甦るというのは無理がある話で、そういう心理的な変化があったという描写もない。
カンナが若い駈に恋をするのではなく、若い駈が45歳のカンナに一目惚れをする話の方が主軸だ。
そのため「 カンナは、いつどんな心境の変化があり、こんなに熱心に駈の運命を変えようとしているのか? 」と戸惑ってしまう。
すり替えられたタイムスリップの設定
2つ目。これがかなり大きな不満だ。
この映画のタイムスリップ設定はあまりにもおかしすぎる。
当初は「 過去に戻って何かをして現在に戻ると、当事者の人格や経験はそのままに、現在が別のものになっている 」という「 ドラえもん 」「 バック・トゥ・ザ・フューチャー 」「 ターミネーター 」などと同じタイムスリップ理論だ。
あくまでもフィクションとしての設定なので、その理論の是非はさておき、一つの作中内ルールとしよう。
この設定(作中内ルール)では、何度タイムスリップしても、カンナはカンナのままで、その人格と人生経験は同一性を保っている。
問題は、それが終盤になっていきなり変わってしまい、しかもそれがこの映画の最も感動的なシーンとして描かれているという点だ。
本作の最後のタイムスリップで駈は真実を知る。
そして「 本来のタイムラインで、冷たい夫婦関係のまま15年の人生を送ることになるのであれば、それを回避して、君を愛し続ける15年間を送り、人生を終える 」と決心する。
この過程や心理変化も決して納得のいくものではないが、そこには目を瞑ろう。
大きな問題は、その後「 幸せな15年間の結婚生活 」が描かれるのだが、そこにおいては、駈だけがタイムスリップしたカンナとの出会いを記憶していて、カンナにはそのような記憶がないことだ。
ここまではタイムスリップをしてもカンナの同一性は保たれていたのに、最後だけ同一性が保たれていないという奇怪な現象。
消された主人公
簡潔に言えば、ここで描かれるのは、観客がそれまで見てきた本来のカンナ(=カンナA)ではなく、駈が違う生き方を選んだ新たなタイムライン、すなわちパラレルワールドに存在する「 カンナB 」なのだ。
ここまでのタイムスリップでは、「 過去を変えると、ある特定の一部だけに変化が起き、パラレルワールドには分岐しない 」はずだったのに、何故かここだけパラレルへの分岐が起きるという、タイムスリップ理論の強引な変更。
しかもそこにいるのは観客がずっと動向を見守ってきた「 カンナA 」ではなく、顔形は同じだが、全く違う人生を送ってきた、見も知らぬ「 カンナB 」なのだ。
では、我々が見守ってきたカンナAはどうしたのか?
「 消された 」のだ。作者のご都合主義の犠牲となって。
これではまるで結婚詐欺
そこまでのタイムスリップ理論に従うなら、以下のようになるはずだ。
「 カンナが現在に戻ってきても、駈が死んだという事実そのものは変わっていない。結婚してからの15年間、駈とカンナは愛に満ちた生活を送ったらしいが、当のカンナはその愛に満ちた15年間を体験していない。それでも駈が自らの意思で残りの人生を選択し、死を受け入れたことに安らぎを覚える 」
しかしそれでは盛り上がらないということか、タイムスリップの作品内ルールをいきなりねじ曲げてしまっている。
設定を生かすのであれば、せめて「 愛に満ちた15年 」はカンナの夢想や幻覚に留めるべきだ(何しろ実際に体験していないのだから)。
だがそのような論理性は無視して、本来のカンナをどこかに消してしまう。
観客をバカにしているとしか言いようがない。人間は物語を動かすコマではない。人間がいて物語が動くのだ。
確かにタイムスリップの設定を完全に無視すれば、駈が自らの運命を選び取る場面も、愛に満ちた15年の描写も感動的なものだ。
だが作者の側で勝手にタイムスリップという設定をしておきながら、「 タイムスリップという設定は無視して感動してください 」というのは、ご都合主義にもほどがある。
そのような嘘で塗り固めた甘い夢を見せて観客を騙そうとするあたり、まさしく結婚詐欺のような映画だ。
人間の命をバカにするな
3つ目もタイムスリップ理論と密接に絡んでくる話。
この物語では、カンナが何度タイムスリップして過去を改変しても、駈の死を止められない。
「 過去に戻って何かを変えても、途中の過程が変わるだけで、人の死など大きな出来事は変えられない 」というのは、SFでたまにある設定だ。
個人的には、ほんのわずかでも過去を変えたら、その後の未来は本人に直接関係ない部分まで含めて大きく変わるのではないかと思うが、これはどちらにしても検証不可能な話。
そういうルールならそういうルールで構わない。
しかし途中で唖然としたのは、カンナが「 事故直前に駅の非常ボタンを押す 」という改変をして現在に戻ると、駈の死亡という事実は変わらないまま、電車が転覆して60人だか600人だかの死亡者を生む大惨事が起きているのだ。
この矛盾にお気付きだろうか?
カンナがいかに過去を変えても、「 駈の死 」という大きな現実は決して変えられないのに、カンナはそれ以外の大勢の人間の生死という巨大な運命を変えてしまったのだ。
「 駈の死は変えられないが、それ以外の人間なら何十人何百人もの生死を変えることができる 」…あまりにもバカバカしいルール違反。
人の命を愚弄しているように思えて不愉快ですらある。
「 バタフライ・エフェクト 」の二番煎じを避けて落とし穴に
さらに根本的なことを言えば、この映画はタイムスリップの設定にせよ、2人の関係にせよ、「 最初に結論ありき 」の作劇が強引すぎる。
「 赤い糸で結ばれた2人は絶対に結婚しなくてはならない 」という少女趣味的な運命論。
人生をやり直すのであれば、決まった運命だの赤い糸だのに対する執着を断ち切り、別の新たな人生を選択すべきだし、それを感動的に描いた傑作に「 バタフライ・エフェクト 」(2004)がある。
あれはこの手の「 タイムスリップやり直しSF 」の一つの究極型であり、明らかに本作の元ネタになっている。
無理矢理それとは違う結末にしたことで、矛盾とご都合主義の落とし穴にはまってしまったわけだ。
そんな酷い映画だが、松たか子と松村北斗の2人は素晴らしく魅力的だ。だからこそもったいない。
せめてタイムスリップのルールを一貫させて、主人公がいつの間にか別の人物にすり替わっているという事態だけでも回避すれば、ここまで酷評することはなかったのに…。

文・ライター:望月正人