「 愛の茶番 」の映画情報・あらすじ・レビュー

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演劇界の鬼才として知られる江本純子。

「 過激派オペラ 」に続く監督第2作は、誰も見たことがないほどユニークな作品だった。

映画と演劇、俳優と観客、フィクションとドキュメンタリーの境界線を激しく揺さぶる、この作品の秘密はどこにあるのか?

目次

愛の茶番

©愛の茶番

あらすじ

ルミ(遠藤留奈)とアキ(冨手麻妙)は、波長の合わない姉妹だった。キヨヒコ(金子清文)と結婚したルミは、かつての恋人・リョウスケ(岩瀬亮)を忘れられないでいる。いっぽうアキは、地下系シンガーソングライターとして活動していたが、マネージャーのドンコ(江本純子)と活動方針をめぐってしばしば対立していた。また同じように全力で「愛」に迷子でいる人々、リエ(菅原雪)、スミオ(吉川純広)、K(藤田晃輔)、トモタロウ(美館智範)らが、さらに複雑に、ルミとアキの生活に交錯していくのだった――
(公式サイトより引用)

公開日

2024年12月7日

上映時間

120分

予告編

キャスト

  • 江本純子(監督)
  • 遠藤留奈
  • 冨手麻妙
  • 菅原雪
  • 岩瀬亮
  • 吉川純広
  • 藤田晃輔
  • 美館智範
  • 江本純子
  • 加治屋彰人
  • 丙次
  • 斎藤千晃
  • 近藤茶
  • 金子清文
  • 渇望者

公式サイト

愛の茶番

演劇界の鬼才・江本純子

©愛の茶番

東京の小劇場演劇に多少でも親しみがある人なら、江本純子の名は確実に耳にしたことがあるだろう。

2000年に劇団「 毛皮族 」を立ち上げ、大きな人気を獲得した劇作家・演出家・俳優で、毛皮族以外にも「 財団、江本純子 」などフレキシブルな形で作品を発表。

2016年には「 過激派オペラ 」で映画監督デビューも果たしている。

「 過激派オペラ 」は江本純子の自伝的な内容で、完成度は必ずしも高くないのだが、桁外れのパワーで見る者を圧倒する作品だった。

その年のベストテンにも選出したほどだ。

当時書いた文章を読み返すと、失礼なことばかり書いてあって肝が冷える思いだが、

〈 「 何のために、誰のために作品を作るのか 」という疑問に対し、「 過激派オペラ 」は「 自らの欲求のためですが何か? 」と答えて一顧だにしない、厚顔無恥な清々しさに溢れているところが好ましい 〉

という一文は、作品の本質をストレートに突いている気もする。

これこそ「 誰も見たことがない映画 」

そんな江本純子の監督第2作が、この「 愛の茶番 」だ。

しかし上映後のアフタートークで、撮影が行われたのがおよそ6年も前だと聞いて驚いた。

その後2年ほど前に一度完成。若干の再編集を施して、ようやく2024年の12月に公開にこぎ着けたらしい。

「 過激派オペラ 」は曲がりなりにも制作会社がついていたが、本作は江本純子による完全な自主製作映画である。

筆者は全く気付かなかったのだが「 参加者 」の募集(これについては後述)やクラウドファンディングなども行われていたらしい。

当然のごとく超低予算だが、低予算を逆手に取った極端にユニークな映画となっている。

「 誰も見たことがない映画 」という使い古された言葉が真に当てはまる作品だ。

本作を見て江本純子の映画作家としての才能が本物であることを確信できた。

ではこの映画の一体何がそんなにすごいのか?

主なポイントが3つあるので、それを順番に説明していこう。

全ての演技がインプロヴィゼーション

まず映画としての語り口が極端にユニークだ。

ストーリーは分断され、断片的なエピソードがコラージュのように散りばめられた構成。

そのため何が何だか分かりにくい部分も多く、通常的な起承転結などは望むべくもない。

それでもとっ散らかった感じにはならず、筋の通ったおもしろさを感じられるのは、それぞれのキャラクターにブレがなく、キャラクター同士の関係性がドラマとして成立しているからだ。

そのキャラクターのリアリティを支えているのが、一つひとつの台詞及び発話の異常な生々しさ。

ジャズのアドリブを思わせる、今その場で言葉が生み出されているかのようなスリリングさだ。

そのありえないほどの生々しさが見ていて不思議だった。

一体どうしたらこんなにも自然な台詞のやりとりが可能になるのだろう。

「 この台詞の何割くらいが脚本に書かれたもので、何割くらいがアドリブなのか? 」

公開初日でアフタートークがあったので、その点について質問しようと思っていた。

ところが出演者の話で、その答えがあっさり出た。

なんと脚本に書かれていたのは役の関係性だけで、台詞は全くなし。

つまり映画内で発せられた台詞は、ほぼ全て演劇のインプロヴィゼーションの手法で生み出されたものだというのだ。

「 かのような 」ではなく、実際に「 今その場で言葉が生み出されている 」のだ。

ヌーベルヴァーグ以降、「 脚本はない 」と称する映画は数多いが、その多くは眉唾だ。

脚本がなかったら、ロケのスケジューリングや小道具の用意など現実的な部分で映画製作が進められるはずがない。

それはせいぜいが「 事前に用意した脚本に縛られず、現場での即興性を重視する 」という程度の意味合いだ。

だがこの「 愛の茶番 」は、後述するような撮影環境と相まって、台詞はもちろん、ストーリー的なものもほとんど脚本に頼らず、その場で生み出されたものだ。

古今東西の映画史を見渡しても、商業映画の枠内でここまで本当に脚本なしで作られた映画は数少ないことだろう。

当然全てのインプロがうまくいくはずもないので、使えないシーンも多いはず。

それをキャラクター主体でうまく繋ぎ合わせて2時間の映画にまとめ上げるため、完成までに数年間かかったという部分もあるはずだ。

撮影素材は全部で23時間あったそうなので、残りの素材を使って、こちらと全くかぶらない、もう一つの「 愛の茶番 」も作れることだろう。

ほとんどのシーンを北千住のBUoYで撮影

次にユニークなのは、撮影場所がほぼ一ヶ所に限定されていること。

どこかで見たような場所だと思ったら、北千住のBUoYというスペースだった。

元銭湯で、しばしば演劇などの上演に使われているが、イベントスペースとして綺麗に整備されているわけではなく、廃墟のような雰囲気を色濃く漂わせている。

そこをライヴハウスにしたり居酒屋にしたりテレビスタジオにしているのだが、セットはごく簡素で、多少の大道具と小道具を並べた程度。

しばらく見ていれば、全部同じ場所で撮影されていることが誰の目にも分かる。つまり演劇と同じ手法だ。

撮影がモノクロなのも、あの空間からナマっぽい質感をはぎ取り、抽象化して、ライヴハウスならライヴハウスとして見せるのが最大の目的だろう。

それによって生まれる効果は、演劇とは違う映画ならではのもの。

ラース・フォン・トリアーの「 ドッグヴィル 」にも一脈通じるものがある。

だがここでふと気付く。

映画も一つのスタジオにさまざまなセットを作り、そこで撮影する例はめずらしくない。

つまり他の映画との根本的な違いは何もないということだ。

違うのは、セットが極端に簡素で「 同じ場所で撮影していますが、ここはライヴハウスです。そのつもりで見てください 」という演劇の手法が用いられていること。

逆に言えば、通常の映画は、同じ約束事を多少最もらしくやっているだけにすぎない。

そのため「 実は演劇と映画の空間概念は、それほど違うものではないのでは? 」など、メタ映画的な考察が生まれてくるスリリングさ。

俳優と観客の境界線を打ち破る試み

そして3つ目は、この映画の撮影現場に「 観客 」がいるということだ。

メインとなるプロの俳優が何人かいるが、それ以外に何十人もの素人が撮影に参加し、一部は脇役やエキストラを演じている。

顔なじみの某シアターゴアがいきなりスクリーンに出てきて、きちんと台詞まで喋っているのには笑ってしまった。

このあたりはアフタートークで最も興味深かった話題で、プロの俳優たちが、素人に食われることに戦々恐々としていた話がとりわけおもしろかった。

さらに、特別な演技はしない観客もいて、その姿が画面に映り込んでいる。

観客といっても客席に座っているわけではなく(BUoYに通常の客席など存在しない)、周りで自由に見物していて、その姿が映画の一部となっている。

たとえ特別な演技をしなくても、人がそこにいるだけで映画の一部となり、映画を別のものに変えていく。

台詞があって演技らしい演技をする人だけでなく、そこにいる参加者全てが映画を形作る。

これもまた「 その場にいる観客と共に一期一会の作品を作る 」小劇場演劇に近い手法だ。

つまりこの作品は、俳優と観客、映画と演劇、劇映画とドキュメンタリーの境界を果てしなくあいまいにする大実験作なのだ。

さまざまな映画で試みられていることではあるが、それをここまで大胆かつユニークな手法でやってのけた作品は、他に知らない。

そこに生きた人間がいることの愛しさ

肝心の内容だが、タイトル通り、10人ほどの男女の愛憎入り乱れた関係を、既に述べたようなコラージュ的な手法で描いたものだ。

全てが生々しく、しかも馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうようなやり取りばかり。

手法は実験的だが、その内容は純然たるコメディ、タイトルに偽りなしの茶番劇だ。

だがそこから滲み出てくるものは、恋愛や人間関係に振り回され狂奔する愚かな人間たちに対する愛おしい視点だ。

アフタートークで遠藤留奈が語っていた通り「 ダメ人間だって生きていて構わない。人生どん底にはまったらはまったで、それも楽しんで生きていけばいいじゃないか 」というポジティヴなメッセージ。

恋愛にまつわる茶番劇を通して、より大きな人間愛を描いた作品と言っていいだろう。

しかもそれが書かれた脚本によるものではなく、インプロヴィゼーションの中から生み出されていく生々しさ。

人間をどこまでも裸にしていくと、かくも愚かで、惨めで、滑稽で、しかし愛おしい存在になるのかという驚きに満ちている。

演劇のファンや関係者は、しばしば「 演劇の最大の魅力は、生きた人間がただそこに存在すること 」といった発言をする。

だとすれば、この「 愛の茶番 」は、映画でありながら、演劇の理想を実現した作品と言えるだろう。

主演女優2人の魅力と陰の主役・三浦大輔

俳優は皆いいが、やはり目を惹かれるのは遠藤留奈と冨手麻妙の、全然似ていない姉妹だ。

遠藤留奈は以前から舞台で見ていてファンだったが、舞台も映画も含め、私が見た範囲では今回が一番の大役だったのでは。

無垢な少女の透明感と娼婦の淫らさ、その両方をこんな不思議なバランスで兼ね備えた人はめずらしい。

冨手麻妙は映画「 娼年 」(2018)のインパクトがあまりにも強く、他の出演作を見ているにもかかわらず、そこで印象が止まっていた。

しかしこの映画で6年間止まっていた時計の針が、ようやく動き出した。

映画内の彼女もさることながら、舞台挨拶で登場した実物が驚くほどかわいくて、すっかりファンになってしまった。

なお遠藤留奈は、映画版には出ていないが舞台版の「 娼年 」に出ているので、この2人は妙な「 娼年 」繋がりがある。

また「 娼年 」映画版の監督/舞台版の演出家を務めた三浦大輔は、ポツドールという劇団の主宰者だが、その代表作で映画化もされた「 愛の渦 」の舞台版には、遠藤留奈と江本純子が出演している。

本作の製作には直接関わっていないにもかかわらず、陰の主役ともいえる立場にいる三浦大輔。

彼が演劇・映画界に与えた影響の大きさを痛感する。

執筆者

文・ライター:ぼのぼの

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