潔いまでに切り捨てられた社会性
「 さらば、わが愛 覇王別姫 」との比較は避けられないと書いたが、実は似て非なる映画と言いたくなるほど違う点がある。
本作が「 社会性 」というものをばっさりと切り捨てていることだ。
1964年に始まり50年後の2014年に終わる物語だが、それは登場人物の上に流れた時の経過を示す数字に過ぎず、その間の日本社会の変遷は、清々しいほど描かれない。
歌舞伎と社会の関係性など歯牙にもかけていない。
激動の歴史に翻弄される人々の姿や京劇への弾圧を描いた「 覇王別姫 」とは、その点がまるで違う。
「 2人の舞台役者の人生という題材は似ているが、テーマは全くの別物 」と捉える方が正しい。
そんな社会性の欠落という点から本作を批判する声も出るだろう。
歴史・社会と人間の葛藤という観点で言えば、本作は「 覇王別姫 」の足下にも及ばない。
そんなものを描こうという気が最初からないのだから当然だ。
特殊を突きつめた先に見える人生の真実
しかし社会性を切り捨て、通常のドラマ部分も犠牲にした代わりに、本作は比類無き美と情念の物語となっている。
既に述べたように、その美点は、欠点や不足部分を補って余りあるものだ。
後半を見ていると分かるが、おそらく喜久雄(吉沢亮)は運転免許を持っていない。
教習所に通う暇などないほど、ただひたすら芸事に明け暮れ、舞台と酒席以外はほとんど知らないであろう特殊な人生。
しかし、特殊を突き詰めることで、人間の普遍的な欲望や情念や不安が炙り出される。
自分の人生と直接的に似ている部分はほとんどないにもかかわらず、まるで「 人生の原型 」を見ているかのようだ。
そんな喜久雄たちの姿を見ていると、人生に本当に必要なものは何なのか、幸福とは一体何なのかを考えずにはいられない。
舞台美術の変遷も見どころの一つ
社会の変遷は全く描かれないと書いたが、実は一つだけ興味深い変遷がある。
それは、歌舞伎の舞台美術・セットだ。
昭和の香り漂ういかにも芝居小屋的な舞台から、現代的なテクノロジーを駆使した照明や舞台機構に彩られた2014年まで。
舞台が好きな人なら、1本の映画の中でその変化を目撃できることも贅沢な喜びとなるだろう。
多くの俳優が自己のベスト演技を見せるが、なかでも桁外れなのは…
見る前は、ポスターなどのイメージから吉沢亮と横浜流星のW主演だと思っていたが、見てみると吉沢亮が主演で横浜流星は準主役というポジションだった。
しかし吉沢亮はもちろんのこと、受けの演技が多い横浜流星も圧巻の名演。
本職の歌舞伎役者でない彼らが、ここまで見事に女形になりきっているのは驚異的だ。
役者とはかくも恐ろしき生き物なのか。
その2人が今の日本の若手俳優の頂点に立っていることは疑いないが、吉沢亮の少年時代を「 ぼくのお日さま 」(2024)の越山敬達、横浜流星の少年時代を「 からかい上手の高木さん 」(2024)や「 【推しの子】 」の黒川想矢が務めていて、彼らが次世代のホープとして頭角を現している姿を見るのも楽しい。
脇役では、渡辺謙も過去ベスト級の名助演なのだが、それすら霞むほど圧倒的な存在感を見せるのが田中泯だ。
舞踏家なので舞台シーンが素晴らしいのは分かるが、むしろそれ以外の部分が壮絶だ。
目をわずかに動かし、声を発するだけで、映画内の時空間が歪む。
あれはもはや人ではない。化け物の領域である。
本年度の助演男優賞を総ナメにすることだろう。
あんな規格外の化け物演技に、一体誰が勝てるというのだ。
観客を金縛りにする驚異の3時間
3時間近い長尺なので、エンドクレジットになったら当然トイレに急ぐ観客が出るだろうと思いきや、何と誰一人席を立たず、食い入るように最後まで画面を見つめていた(劇の途中でトイレに立つ人はさすがにいた)。
そもそも映画が始まる直前までスマホをいじっている観客が何人かいて観賞環境を危ぶんでいたのだが、上映中にスマホをいじるような者は一人もおらず、山のようなポップコーンを抱えた客はほとんど手を付けていないようだった。
それほど客席は圧倒され、固唾を呑んでスクリーンを見つめていた。
しかもSNSを見ていると、それは自分だけが遭遇した特殊なケースではなく、多くの場所で同じ現象が起きているようなのだ。
多くの観客にとって、この3時間は希有の体験となったことだろう。

文・ライター:望月正人
「 ヒプノシス レコードジャケットの美学 」の映画情報・あらすじ・レビュー