MCU「 アベンジャーズ / エンドゲーム 」トロッコ問題への回答
アベンジャーズ / エンドゲーム
公開日
2019年4月26日
原題
Avengers: Endgame
上映時間
181分
キャスト
- アンソニー・ルッソ(監督)
- ジョー・ルッソ(監督)
- クリストファー・マルクス(脚本)
- スティーヴン・マクフィーリー(脚本)
- ロバート・ダウニー Jr.
- クリス・エヴァンス
- クリス・ヘムズワース
- ブリー・ラーソン
- マーク・ラファロ
- ポール・ラッド
- スカーレット・ヨハンソン
予告編
公式サイト
インフィニティ・ウォーで提示されたトロッコ問題への回答
劇場で4回見て、今回はDisney+で5回目の観賞。
前作「 インフィニティ・ウォー 」に比べると細部にあれこれ綻びがあり、完成度は前作よりも落ちる。
だがそれを割り引いてもMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)10年間の総決算となる傑作だ。
涙なしには見られない。
2作続けて見直したことで、ようやく分かったことがある。
まず「 インフィニティ・ウォー 」の魅力は、特定のイデオロギーに偏ることなく、登場人物のさまざまな価値観のぶつかり合いを描いた点にあり、全編が「 トロッコ問題 」のショーケースとなっていること。
そして今見直すと、この「 エンドゲーム 」が、前作で提示されたトロッコ問題に対する1つの回答となっていることに気づく。
同じ犠牲でもまったく違う意味合い
「 インフィニティ・ウォー 」においてサノス(ジョシュ・ブローリン)が勝利を収めたのは、「 意思 vs 意思 」の闘いにおいて、さまざまな揺れや迷いがあったアベンジャーズのメンバーに比べ、サノスの信念が圧倒的に強固なものだったからだ。
ではなぜ「 エンドゲーム 」においてアベンジャーズ側が最終的な勝利を収めたのか?
それはサノスが最後まで「 理念 」に殉じた人物であるのに対し、アベンジャーズのメンバーは、現実に存在する / した人への「 愛 」をモチベーションとして動いていたからだ。
たとえばソウルストーンを手に入れるとき、サノスは悲しみと苦しみを引き受けつつも、迷うことなくガモーラ(ゾーイ・サルダナ)を犠牲として差し出す。
それに対してナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)とバートン(ジェレミー・レナー)は、互いを犠牲にしようと競う。
結果は同じでも、やっていることは全く正反対なのだ。
そして指パッチン。
サノスはあくまでも自分の理念のために指パッチンをするが、スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)は家族や仲間のために自分を犠牲にする。
「 理念 」を上回る「 愛 」の力
「 インフィニティ・ウォー 」は「 トロッコ問題のショーケース 」だと述べた。
しかしトロッコ問題というのは、主体は生きていて、客体のAとB、どちらを救うべきかという問題に過ぎない。
犠牲になるのはあくまでも客体だ。
「 エンドゲーム 」はトロッコ問題の次のステップに踏み込んでいる。
「 自分の命と他者の命のどちらを救うべきか 」という究極の問いに対し、アベンジャーズは自己犠牲を選択する。
それは理念のためというよりも、家族や仲間を救いたいという強い「 愛 」によるものだ。
「 インフィニティ・ウォー 」では、アベンジャーズのメンバーの心にさまざまな迷いがあったことで破れた。
しかし生命の半数を失うという巨大な喪失を経たことで、彼らは「 失われた半数の生命を甦らせることができるなら自分の命を差し出してもいい 」という結論に至る。
「 理念 」としてではなく「 愛 」によって。
つまり「 エンドゲーム 」の本質は、アベンジャーズの具体的な「 愛 」が、サノスの抽象的な「 理念 」に勝利する物語なのだ。
幾つかの「 自己犠牲 」を代償として。
前半の重苦しさ、とりわけ生き残った人々が喪失の苦しみを吐露する場面は、東日本大震災からまだ8年しか経っていなかった2019年には、痛切に心に響いたことを思い出す。
映画は、時に現実社会と偶然の一致を見せてしまうことがある。
映画そのものの純粋な出来とは区別すべきかもしれないが、そんな奇跡もまた、映画の大きな魅力であることは否定できない。
文・ライター:ぼのぼの