映画「 先生の白い嘘 」感想レビュー【 ネタバレなし 】

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男女の性格差をセンシティブに訴えた作品。

目次

先生の白い嘘

©先生の白い嘘

あらすじ

高校教師の原美鈴(奈緒)は、教卓の高みから生徒達を見下ろし観察することで、
密かに自尊心を満たしながら、女であることの不平等さから目を背けていた。
ある日、美鈴は親友の渕野美奈子(三吉彩花)から早藤雅巳(風間俊介)と婚約したと告げられる。
早藤こそ、美鈴に女であることの不平等さの意識を植え付けた張本人だった。
早藤を忌み嫌いながらも、早藤の呼び出しに応じてしまう美鈴。
そんなある日、担当クラスの男子生徒・新妻祐希(猪狩蒼弥)から衝撃的な性の悩みを打ち明けられ、
思わず美鈴は本音を漏らしてしまう。新妻は自分に対して本音をさらけ出した美鈴に魅かれていき……。
そして、歪んだ愛憎渦巻く人間模様は思いもよらぬ狂気の世界へと向かっていく。
その先で美鈴が見る景色とは——

(公式サイトより引用)

公開日

2024年7月5日

上映時間

117分

予告編

キャスト

  • 三木康一郎(監督)
  • 奈緒
  • 猪狩蒼弥
  • 三吉彩花
  • 田辺桃子
  • 井上想良
  • 小林涼子
  • 森レイ子
  • 吉田宗洋
  • 板谷由夏
  • ベンガル
  • 風間俊介

公式サイト

先生の白い嘘

作品評価

  • 映像 
  • 脚本 
  • キャスト 
  • 音楽(BGM) 
  • リピート度 
  • グロ度 
  • 総合評価 

考察・感想レビュー

©先生の白い嘘

本レビューは非常に執筆が難しい。

それは僕が男たるゆえに。

そして、言葉選びに苦慮している。

非常にセンシティブゆえに。

言葉の使い方次第では卑猥で猥褻と認識されてしまうやもしれない。

それでも僕はこういった内容の場合、直接的な表現を隠さず、オブラートに包まず使用することで真実と真意が伝わると思っている。

それでは語ろうか。

本作で、主演の奈緒が冒頭で語る台詞。

「 人間を二つに分けたとして、綺麗に割れない。必ずどちらかが少しだけ取り分が多いと私は感じている。私はいつでも取り分の少ない方にいる 」

タイトル表示の前に「 それでは授業を始めます 」

公開からネットのレビューでは賛否両論が飛び交っている。

どちらかというと否定論が多いようだ。

男女の性交に関しての問題提起として、特定要素の中で一般上映可能な範疇で生々しい表現への忌避感と嫌悪感。

そして、奈緒からの「 インティマシー・コーディネーターを入れてほしい 」という要望があったものの、

演出方針に他者を介在させたくなかった監督の意図がインタビューから発覚し、炎上してしまった。

次に公式サイトの解説文の「 快楽に溺れ 」の1文の削除。

パンフレットの販売延期等々が拍車をかけていた。

ゆえに、僕は「 授業 」だと思うのです。

21世紀に入り、欧米のキリスト教規範の倫理観と半世紀に及ぶ女性主権運動、人種差別、性差別、

性加害対策等々の結果がジェンダーレスや多様性という命題の御旗として現代は振りかざされている。

しかし、日本人の古代から現代までの文化性を鑑みた場合、欧米から発信された命題を正確に受け入れるには、

百年単位に及ぶ年月と咀嚼が必要だと思う。

最大の要因は21世紀に入り、4半世紀を迎える現在でも「 個人主義 」が正確に理解され受容されていない。

日本人にとって個人主義≒利己主義に他ならない。

個ではなく己≒我欲優先の概念なのです。

次に「 性文化 」

本来、日本人はFree Sexが文化の中で享受されていた民族。

(キリスト教や仏教以前の神々はFreeだった)

例えば祭りの夜は夜這いが許されていた。

既婚者でも、子持ちでも、高齢者でも関係なく気に入った相手に夜這いや誘いを仕掛ける。

この流れを最近で表現したシーンは、岡田准一が主演した「 燃えよ剣 」で郷土で燻っていた頃のシーンでさりげなく描かれていたりする。

この文化が享受されるに当たって禁忌はある。

幼児性愛、また相手が女でも男でも拒否した場合には速やかに撤収することが暗黙のルールだった。

しかし、いつしか和洋折衷の中で為政者や倫理識者達によって性文化は歪で頑な恥と罪悪の側面ばかり台頭していった。

消された1文の「快楽に溺れ」

映画の中で乱暴に強制性交されられている奈緒の表情や口元のアップにおいて、

苦悶を堪えながらも時に口角が上がり、甘い吐息を吐き出すように唇が開き、眼を閉じて堪能している瞬間がある。

これはポルノ作品よりもはるかにリアルだと僕は思った。

なぜなら性交による快楽は必然として、肉体的苦痛から肉体と精神を保護する自立感覚だからだ。

分かる方には伝わるだろうが、性交によって果てる際は、男も女も悦楽ではなく断末魔に似た苦悶を示していると僕は常々思っている。

そして、果てるという意味では、男は吐き出す者≒強、女は呑み込む者≒弱の構図が、フェミニズム的に刷り込まれてしまっている。

だから、強者が弱者よりも多くを得るという主人公の概念を視点に語られ、更に彼女は奪われる最弱者であった。

誰しもが自己肯定にあたって対象者よりも優位なスタンスを認知することで納得し、時には快感を伴う歪を内包する。

自分よりも女として社会的スタンスとして勝ち組である親友の男は、

支配と強要ながらも親友より自身を貪るように求めてくることで優位性にほくそ笑む。

だから、” 快楽に溺れ “と表現される。

そこに強者であることを弱者たる女から強いられ搾取された男子が現れる。

出会った2人の概念の差異は、互いと自己への認識と理解に傾いていく。

二律背反的な性愛と性交と精神の共助は愛に昇華していく。

強く強く。

だからこそ” 授業 “だったのだ。

まとめ

僕が無神経で無配慮なのかもしれないが、生々しくセンシティブな事象を、安直に” 穢れ “とする現代精神文化に違和感を昔から感じている。

悪意や御都合主義ではなく伝えたい。

「 愛のないSEXはある。しかしSEXのない愛はつらい 」

僕の心情である。

執筆者

ライター:LEDMAXI

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