「 青春ジャック 止められるか、俺たちを2 」の映画情報・評価・感想レビュー
2012年に死去した日本映画界の鬼才・若松孝二。
若松プロダクション黎明期を描いた「 止められるか、俺たちを 」の続編。
前作から10年以上経った1980年代を舞台に、名古屋の劇場シネマスコーレ創設の物語と、若松に弟子入りした井上淳一の青春物語を描く。
青春ジャック 止められるか、俺たちを2
あらすじ
映画を武器に激動の時代を走り抜ける若者たちを描いた『止められるか、俺たちを』から 10 年後。 1980 年代。時代も人も変わった。シラケ世代と言われ、熱くなることがカッコ悪いと思われていた時代。ビデオが普及し始め、映画館から人々の足が遠のき始めた時代。それに逆行するように、若松孝二は名古屋にミニシアターを作る。その名はシネマスコーレ。ラテン語で「映画の学校」。支配人に抜擢されたのは、結婚を機に東京の文芸坐を辞め、「これからはビデオの時代」と地元名古屋でビデオカメラのセールスマンをやっていた木全純治だった。木全は若松に振り回されながらも、持ち前の明るさで経済的危機を乗り越えていく。 そこに吸い寄せられる若者たち。まだ女性監督のほとんどいなかった時代。金本法子は「自分には撮りたいものなんか何もない」と言いながら、映画から離れられない。田舎の映画青年だった井上淳一もまた映画監督になりたい一心で若松プロの門を叩く。己れの才能のなさを嫌でも自覚させられる日々。それでも、映画を諦め切れない。救いは、木全が度々口にする「これから、これから」という言葉。 今がダメでも次がある。涙だけじゃない。そこには笑いがある。絶望だけじゃない。希望がある。この映画は僕の、私の物語であると同時に、あなたの物語でもある。これはあなたの青春の物語だ。
公式サイトより引用
公開日
2024年3月15日
上映時間
119分
予告編
キャスト
- 井上淳一(監督)
- 井浦新
- 東出昌大
- 芋生悠
- 杉田雷麟
- コムアイ
- 田中俊介
- 向里祐香
- 成田浬
- 吉岡睦雄
- 大西信満
- タモト清嵐
- 山崎竜太郎
- 田中偉登
- 高橋雄祐
- 碧木愛莉
- 笹岡ひなり
- 有森也実
- 田中要次
- 田口トモロヲ
- 門脇麦
- 田中麗奈
- 竹中直人
公式サイト
前作を見ていなくても問題ない独立した内容
前作「 止められるか、俺たちを 」(2018年)は未見。
それなのに続編を見ようと思った最大の理由は、大ファンである芋生悠が出ているから。
また、続編といっても、前作との直接的な繋がりはあまりなさそうで、独立して楽しめるはずだと思ったからだ。
その予想は正しかった。
改めて調べると、前作は1970年前後が舞台。
こちらは1980年代中盤が舞台で、主要人物で続投しているのは若松孝二(井浦新)のみ。
登場人物に若松孝二がいる全く別の物語と言っていいだろう。
前作は若松プロの助監督だった吉積めぐみ(門脇麦)が主人公。
彼女は写真と声のみの登場だが、前作で亡くなっていることは知っていたので、特に問題なく受け入れられた。
終盤に大和屋竺など若松より先にあの世へ旅だった仲間たちが出てくるが、彼らのことはリアルな映画史の人物として若松との関係を知っていたので、こちらも問題なし。
つまり前作を見ていれば、思い入れという面でさらに楽しめるだろうが、今作だけ見ても全く問題ない。
だからタイトルに「 2 」と入れて観客層を狭めたのは、商売上得策ではなかったように思う。
「 止められるか、俺たちを 青春ジャック 」ではダメだったのだろうか?
シネマスコーレをめぐる物語
若松孝二が名古屋に作った映画館シネマスコーレにまつわる物語と、本作の監督・脚本である井上淳一が若松プロに助監督として弟子入りし、あれこれの挫折を経験する様子が二本柱として描かれる。
まずシネマスコーレ周辺の話はかなり面白い。
1980年代をリアルタイムに知る者としてはこそばゆい部分もあるが、ホームビデオの登場で映画がますます斜陽に向かう中、インディーズの映画が勃興していく時代の空気感を思い出した。
文芸坐の元スタッフでシネマスコーレの支配人に起用された木全(東出昌大)が、やたら前向きな姿勢で、客の入るピンク映画を上映しつつ名画座的な方向に舵を切ろうとする様子や、
映画監督になりたかったが何を撮っていいのか分からず、才能がないと諦めた金本(芋生悠)の屈折した心情に、さまざまな共感を覚える。
舞台となったシネマスコーレには、2000年に一度だけ行ったことがある。
見た映画は「 ナビィの恋 」
あの頃は椅子がビニールみたいな材質で座り心地はイマイチだった記憶がある。
映像で見ると、今はずいぶんいい椅子に変わっているようだ。
ただし1980年代当時は、間違ってもあんないい椅子ではなかったはずだという部分は気になった。
これは低予算映画の常で、今あるものをそのまま使うほかなかったのだろう。
自分自身の物語であるがゆえの甘さ
問題は井上淳一の助監督時代の物語だ。
こちらの青春物語にも共感するところは多数ある。
しかしもっと大胆にフィクションとして脚色するならともかく、自分自身の物語をそのままストレートに描くわけだから、やはりどこか切り込みが甘い。
井上は1965年生まれの50代。
まだまだ生臭く、自分の過去を突き放して振り返ることなどできない年齢だ。
そのナルシシズムを押し隠して、「 公開しても問題ない青春の未熟さ 」だけをおずおずと差し出すような気持ち悪さが全編に漂っている。
実のところ、シネマスコーレの方も、木全の家族描写が中途半端だったり、金本の在日韓国人というアイデンティティ問題がメインストーリーと馴染んでいなかったり、決して出来がいいわけではない。
しかしあまりにも時代を感じさせる上映映画のセレクトや、東出/芋生という2人の俳優の魅力で楽しく見ることができる。
それに比べると井上淳一の助監督物語は、杉田雷麟が演じる井上の魅力のなさ(これは単なる自虐にしか見えない)など、本人も気付いていないかもしれない屈折した自意識が鼻につくことは否めない。
あの狂躁の時代をどのように見ているのか?
より根本的に気になったのは、これだけ当時の映画界や世の中の流れを描きながら、それに対する批評精神というか、この2024年に振り返ったからこそ分かるものが見えてこないことだ。
例えば若松孝二の、いかにも前時代的なパワハラ演出、ブラックな製作環境をどのように位置付けているのか。
木全が「 これは映画ですらなく、ただのアダルトビデオです 」的な発言をするが、かつてはピンク映画も「 こんなものは映画ではない 」と差別されたはずだ。
そのピンク映画の側に立つ人間が、新興のアダルトビデオをさらに差別する構造についてどう考えるのか。
それらは確かに1980年代の現実だった。
しかしそれを「 これが1980年代の現実だった 」と客観的に描いているのか、「 今にして思えばさまざまな勘違いや思い上がりがあった 」的な自省を込めているのか、「 確かに悪いところはあったが、いい部分もあった 」と擁護しているのか…
映画だけを見る限り、立ち位置が不明瞭なのだ。
その曖昧さが、タイトルに反して、本作のどこか突き抜けない弱さになっている。
井浦新と東出昌大が並ぶと…
ただ決して傑作と言えないものの、当時を知っている映画ファンなら楽しく見られることは間違いない。
肩肘張らずに楽しむ普通の娯楽映画と考えれば問題ないだろう。
機会があれば、前作も見てみたいものだと思う。
肝心の芋生悠は、相変わらず根暗な個性に溢れているものの、役柄が動的なドラマ性に乏しく、はっきり言って役不足。
ファンとして一応見なくてはならないものの、「 ソワレ 」(2020年)や「 ひらいて 」(2021年)の彼女に比べればだいぶ物足りないし、
脇役ながら鮮烈な印象を残した「 夜明けのすべて 」(2024年)と比べても弱い。
それにしても、あの井浦新が、東出昌大と並ぶと、少し背が低く顔が大きく見えるというのは、かなり脳内がバグる光景ではある。