1998年に製作された「 蛇の道 」は、黒沢清初期の傑作としてカルト的な人気を誇っている。
2024年、黒沢清がその映画をセルフリメイクした。
それも舞台をフランスに置き換え、哀川翔が演じた役を柴崎コウにジェンダー変更して。
オリジナルよりもはるかに恵まれた条件で作られたリメイク版は、果たしてオリジナルを超えたのか?
蛇の道(2024)
あらすじ
ジャーナリストのアルベール・バシュレ(ダミアン・ボナール)とパリのとある病院で心療内科医として働く新島小夜子(柴咲コウ)は、高級アパルトマンの1階で、エレベーターから出てきたミナール財団の元会計係ティボー・ラヴァル(マチュー・アマルリック)を襲撃。ガムテープで身体をぐるぐる巻きにし、寝袋に押し込むと、車で郊外の廃墟と化した隠れ家に連れ去り、監禁する。
壁の鎖に繋がれたラヴァルの前に、無言のまま液晶モニターを運んでくるアルベール。スイッチを入れ、そこに少女が微笑むホームビデオが映し出されると、彼はようやく「僕の娘だ。殺された」と重い口を開き、「娘のマリーは財団関係者に拉致された。あなたがやった。そうですね?」と詰め寄る。 だが、ラヴァルは「私はやってないし、何も知らない」と嘯くばかり。イライラを募らせたアルベールは拳銃を彼の頭に突きつけるが、小夜子に「焦らないで。時間はいくらでもあるんだから」と言われ、銃を取り上げられると、ようやく平静を取り戻し、その場を立ち去る。すると、背後から「後で後悔するぞ」という、脅すようなラヴァルの声が聞こえてきたから、小夜子も黙ってはいない。一瞬の迷いもなく、彼のぎりぎりのところを狙って銃弾を撃ち込むと、鋭い眼差しで「このあたりには誰も住んでいない。いくら叫んでも、助けは来ないわ」と吐き捨てた。
アルベールと小夜子が出会ったのは3ヶ月前。娘の死のショックで精神を病み、小夜子が勤める病院に通院していたアルベールに、「私は 心療内科の医師です。5分ほどよろしいですか」と小夜子が声をかけたのが最初だった。そのときのことを思い出しながら、「結局、君まで巻き込んでしまった。どんなに感謝すればいいか」とアルベール。「いよいよね。ふたりで最後までやり遂げましょう」という小夜子の声にも力が入る。彼らは本気だった。ラヴァルが「トイレに行かせてくれ」と叫んでも、失禁しても放置し続け、空腹を目で訴える彼の前でプレートに乗った料理をぶちまける酷い仕打ちを続けたのだ。そんなある日、過酷な状況に耐えきれなくなったのか、ラヴァルから驚きの証言が飛び出す。ミナール財団には有志たちが作った孤児院のような児童福祉が目的のサークルがあって、ラヴァルは「集められた子供たちはどこかに売られていったのではないか?子供たちを売買して売れ残ったら始末する、そんなことができる黒幕は財団の影の実力者ピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)しかいない」と主張したのだ。
だが、鵜呑みにはできない。ラヴァルから聞き出したピエールが潜伏する山小屋に向かったアルベールと小夜子は、猟師と一緒に山から帰ってきた彼を脅し、拘束。ピエールの入った寝袋を引きずりながら、猟師の追撃を振り切るように森林、丘陵地帯を駆け抜け、隠れ家に戻ると、ラヴァルの横の鎖にピエールを繋いでふたりを突き合わせる。するとやがて、彼らの口から、それまでのすべての出来事を覆す衝撃の真実が浮かび上がってきて…。 果たして、アルベールの娘マリーは、誰に、なぜ殺されたのか。事件の思いがけない首謀者とは─。国境を越えた“徹底的復讐劇”の先に待つ真実とは──
公式サイトより引用
公開日
2024年6月14日
原題
Le chemin du serpent
上映時間
113分
予告編
キャスト
- 黒沢清(監督)
- 柴咲コウ
- ダミアン・ボナール
- マチュー・アマルリック
- グレゴワール・コラン
- 西島秀俊
- ビマラ・ポンス
- スリマヌ・ダジ
- 青木崇高
公式サイト
1998年のカルト映画を2024年にセルフリメイク
黒沢清が1998年に製作した「 蛇の道 」は、彼の初期作品としてカルト的な人気を誇る1本だ。
その「 蛇の道 」がフランスを舞台にリメイクされた。しかも黒沢清自身によるセルフリメイクだ。
インタビューによると、黒沢自身がリメイクを切望していたというわけではなく、
フランスの製作会社から「 何かセルフリメイクをしたい作品はないか 」と問われ、「 蛇の道 」を挙げたことから実現した企画らしい。
オリジナルとの最大の違いといえば、哀川翔がやった役を女性である柴崎コウが演じていることだが、このジェンダーの変化も、
オリジナルとは違う内容にしたいと思ったことから生まれたアイデアで、深いテーマ上の変化があってのことではないようだ。
リアリズムタッチにしたことが裏目に
結論から言おう。
本作は、1998年のオリジナル版と比較すると、かなり落ちる出来だ。
何のためにわざわざリメイクしたのか分からない、悪い意味で普通のサスペンスに終わっている。
哀川翔の役が女性となり、オリジナルに登場していたそれ以外のキャラクターが全てフランス人になっているほかにも、
柴崎コウの仕事がパリで働く心療内科医になっていたり、日本に帰国している夫がいたり、コメットさんに当たる奇妙な殺し屋がいなくなっていたりと、随所で設定が変わっている。
しかし復讐譚としての大筋は、むしろ意外なくらい同じだ。
大きな違いはストーリーよりも演出面。
オリジナルにあった奇妙さや後期の鈴木清順を思わせる様式が薄れ、リアリズムタッチになっていることだ。
そのため設定やストーリーの粗が目立ち、「 そんなに物事がうまくいくわけないだろう 」と醒めた気分を覚える。
2人が、狙った容疑者に逆襲されるなど、オリジナルにはないリアルな要素も入れているのだが、それがむしろ墓穴を掘る結果になっていて、
「 裏社会に生きている屈強な男1人を拉致するのに、計画があまりに杜撰 」「 柴崎コウは無視できないダメージを受けたはずなのに、傷一つない 」など、
中途半端にリアルにしたせいで、逆にリアルになりきれない部分が目立ち、単なる「 嘘臭さ 」として感じられてしまう。
謎の数式がリアルな心の病に
もう一つ重要な変更がある。
意味がよく分からないにもかかわらず、ブラックホールのように物語の中心に位置していた「 実在しない謎の数式 」と「 実在しない謎の教室 」がなくなったことだ。
これは下手をすれば主役のジェンダーが変わったことよりも、作品の雰囲気に大きな変化をもたらしている。
その代わりに挿入されるのは、パリの病院で働く柴崎コウが、フランスでの暮らしに馴染めず精神を病んでいる西島秀俊を診察するシーンだ。
だがこちらはオリジナルと違い、ごくリアルな内容。
「 CURE 」(1997年)を思わせるような展開にはなるものの、作品の本筋やテーマに深く影響するエピソードとは思えないし、
オリジナルの数式が持つ不気味さや不可解さとは比ぶべくもない。
リメイクした意味はほとんど見出せず
本筋だけを見ればワンアイデアな復讐劇なので、オリジナル版は85分という上映時間もちょうどいい感じだった。
ところがこのリメイク版は、オリジナルにはないエピソードなども入れて113分と30分近くも延びている。
そのため間延びし、先の展開が分かっているため、途中で飽きてしまった。
柴崎コウはフランス語の台詞を流暢にこなし、非常に頑張っている。
だが彼女のシリアスな演技が、この作品のリアリズムタッチを強調し、荒唐無稽なストーリーの粗を際立たせる結果になっている。
哀川翔の飄々とした演技が、凄惨なストーリーと見事な対位法を見せていたのとは大違いだ。
それ以上に問題なのは、まさしくシリアス一辺倒な演技のダミアン・ボナール。
行動の動機はシリアスなのに、そこから歪んだユーモアと狂気が滲み出し、ちょっとでも目を離したら次に何が起きるか分からない香川照之の演技とは全く比較にならない。
とはいえ、これは俳優の責任というより、そのようなキャスティングと演技指導を行った黒沢清の責任だろう。
まとめ
もしオリジナルを見ずにこちらを見たら、もう少し楽しめたと思うし、決してそこまで酷い作品ではない。
しかしあの傑作をわざわざ外国でセルフリメイクして、オリジナルよりもずっと落ちる作品を作られたのでは、文句の一つも言わずにはいられない。
黒沢清ファンの私でも、いや、むしろ黒沢清ファンだからこそ、この作品に対してあまり好意的なことは書きようがない。
オリジナル版の記事はこちらから↓