巨匠・黒澤明がシェイクスピアの「 マクベス 」を映画化。
後の「 影武者 」「 乱 」にも繋がる不朽の魅力とは?
蜘蛛巣城
あらすじ
戦国時代。謀反を鎮圧した武将の鷲津武時と三木義明は、主君の居城・蜘蛛巣城へ向かっていた。しかし雷鳴の中、ふたりは“蜘蛛手の森”で道に迷い不気味な老女に出くわす。老女は、武時が北の方館の主から蜘蛛巣城主に、義明の子が蜘蛛巣城主になると予言し……
映画ナタリー「 蜘蛛巣城(4Kデジタルリマスター版) 」より引用
公開日
1957年1月15日
上映時間
110分
キャスト
- 黒澤明(監督)
- 三船敏郎
- 久保明
- 千秋実
- 小池朝雄
- 志村喬
- 山田五十鈴
- 木村功
黒澤映画の中でもトップクラスに入る1本
黒澤明がシェイクスピアの「 マクベス 」を戦国時代の日本に置き換えて映画化した1957年作品。
10代の頃から何度か見ていて、多分今度で4回目になる。
以前もすごい作品だとは思ったが、他の黒澤映画に比べると「 重く、長く、ユーモアのかけらもないので疲れる 」という印象があった。
しかし21世紀に入ってから見るのは、恐らく今回が初めて。
20世紀と現在の自分では、演劇を熱心に見るようになり、シェイクスピアの戯曲もかなり読んでいるという点が大きな違い。
そのような素養を身に付けた上で見ると、この作品における演劇的手法と映画表現の違いがゾクゾクするほど面白い。
数ある黒澤映画の中でも、間違いなくトップクラスに入る1本であることが確認できた。
能の様式美は実は限定的
「 影武者 」(1980年)以前の黒澤映画の中では最も様式的な作りだと思っていたが、今改めて見ると、実は能の影響を受けた様式的な演技・演出は、
山田五十鈴演じる浅茅(マクベス夫人)と浪花千栄子演じる物の怪の妖婆(魔女)の二人に集中し、他はいつもの黒澤らしい映画的なダイナミズムに満ちていることが分かった。
山田五十鈴は、全ての動きが能を思わせる様式的なもので、これは明確な演出だろう。
一方、鷲津武時(マクベス)を演じる三船敏郎は、体の動きも台詞回しも仰々しさが若干増しているものの、ほぼいつも通り。
二人の明白に違う演技スタイルが、ちゃんと一つの物語の中で噛み合っている様子は、今見ると最高にスリリングだ。
物の怪の妖婆は、そもそも物の怪なのだから人間的な生々しい感情がなく、演技も様式的なものになるのは当然だ。
役らしい役で女性は浅茅と物の怪の妖婆の二人しかおらず、その二人が主人公を破滅へと導くところに、本作の1つのテーマが隠されている。
自らの一族を滅ぼされた楓の方(原田美枝子)が巧みな計略で主人公一族を滅亡へと導く「 乱 」(1985年)の萌芽と言っていいだろう。
絵作り、演技、テーマなど、さまざまな面で「 影武者 」「 乱 」との繋がりが見出せる(「 乱 」は本作と同様シェイクスピアの「 リア王 」を戦国時代に置き換えた作品だ)。
逆に遡って、浅茅や楓の方の原型を、京マチ子演じる「 羅生門 」(1950年)の真砂に見出すのも面白いだろう。
シェイクスピア劇からの見事な脚色
シェイクスピア「 マクベス 」との比較で言うと、最も大きな違いはマクダフに当たる役がいないことだが、それよりも感心したのは、浅茅(マクベス夫人)の心理変化をより明確なものにした点だ。
シェイクスピアの戯曲を何度読んでも、上演される舞台を何度見ても違和感を覚えるのは、マクベス夫人が宴席のあとしばらく出てこず、次に出てくるときに、いきなり発狂していることだ。
宴席では十分に気丈だった人物が、次の出番で発狂しているのは、あまりに唐突すぎる。
1606年に書かれた戯曲の一部が、どこかで欠落したのでは?と前から疑っているところだ。
小国英雄 / 橋本忍 / 菊島隆三 / 黒澤明という史上最強の脚本家チームも、さすがにその点に引っかかったのだろう。
浅茅は自らが妊娠しているが故に三木(千秋実)の息子に後を継がせるのを嫌がったこと、その子どもを死産したことが発狂への伏線になったことが補われている。
これで十分とまでは言えないかもしれないが、生まれてくる子どものために犯した大逆が何の意味もなかったこと、
むしろその天罰で死産に終わったのかもしれないという自責の念が、浅茅の精神を追いつめたことは納得がいく。
これによって話の流れが格段にスムーズになった。素晴らしい脚色だ。
前半では主君を殺した血を実際に見せ、最後には手について落ちない幻の血を洗い流そうと苦しむ浅茅の姿を見せる(手を洗っている水さえ幻だ)。
その間に直接の描写はなくとも「 死産 」が入ることで、「 血の連鎖 」というイメージが、より大きなサイクルとして完成する構成にも戦慄した。
シェイクスピアの原作では、マクベス夫人は発狂ののち息を引き取るのだが、本作では浅茅の死の描写は存在しない。
つまり夫が死に、敵の軍勢が城に入ったあとも、彼女は狂ったまま生きていていたということだ。
それは原作以上に悲惨かもしれない。
受け継がれる無常観
そんな血みどろの権力闘争も、全ては兵(つわもの)どもが夢の跡。
最初と最後で城郭が消え去った「 蜘蛛巣城跡 」の碑を見せる構成は複式夢幻能を思わせるものであり、その無常観は「 影武者 」「 乱 」に受け継がれている。
さらに言えば、スタンリー・キューブリックの「 バリー・リンドン 」(1975年)に影響を与えた可能性もある。
この映画を初めて見たとき、まだシェイクスピアの戯曲は読んでいなかったはず。
それもあって、私にとっては長い間〈「 マクベス 」と言えば「 蜘蛛巣城 」〉というイメージだった。
一周回って改めて思う。
〈この映画「 蜘蛛巣城 」こそベスト・オブ・マクベスだ〉と。