半世紀以上も色褪せぬ恐怖。
「 切腹 」「 人間の条件 」などで知られる巨匠 – 小林正樹が、小泉八雲の「 怪談 」の中から「 黒髪 」「 雪女 」「 耳なし芳一の話 」「 茶碗の中 」という4つのエピーソドを選び、
1964年に映画化したオムニバス映画(エピソードの選択は脚本の水木洋子によるものとされている)。
カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、米アカデミー賞外国語映画賞にノミネート、キネマ旬報ベストテンでは勅使河原宏の「 砂の女 」に次いで第2位を獲得するなど、批評家からは絶賛を浴びた作品だ。
60年も前の作品なので、もちろんCG等はなく、特殊効果もごく素朴なものだ。
近年のホラー映画に見られる虚仮威しはほとんどない。
正直、今となっては冗長に感じられる部分も多い。
それでも近年の映画にはない、妙な不気味さを感じられるのも事実だ。
それは一体ナゼなのかを考えてみたい。
怪談(1964)
公開日
1964年12月29日
上映時間
183分
キャスト
- 小林正樹(監督)
- 水木洋子(脚本)
- 三國連太郎
- 新珠三千代
- 仲代達矢
- 岸惠子
予告編
なし
公式サイト
なし
音楽 / 音響の怪
本作の薄気味悪さに大きく貢献しているのが音楽 / 音響だ。
それほどまでに、この音響設計は常軌を逸している。
まず武満徹の音楽だが、これはそもそも「 音楽 」と言えるのか?
何の楽器でどう出しているのかもよく分からない奇妙な音の数々。
一般的に音楽というものは、メロディ・リズム・ハーモニーの3要素で構成される。
ところが最初のエピソード「 黒髪 」で聞こえてくる音には、そのどれもが欠けているのだから、これは一般的な意味での音楽ではないのかもしれない。
だが明らかに自然の音ではない。
ただの効果音でもない。何らかの意図を感じさせるのだが、それが何者のどんな意図を示しているのか具体的に分からない…
人間的な喜怒哀楽を超えた音の響きが、不気味さを際だたせている。
武満徹のクレジットが、そもそも「 音楽 」ではなく「 音楽音響 」となっている点は注目に値する。
さらに気味が悪いのは、本作は足音や衣擦れなど、人間が生きて動いていれば当然聞こえてくる自然な音が、多くの部分で排除されていることだ。
普通の映画は、リアリティ重視でそういうものを入れた上で、さらに音楽を加えていく「 足し算 」の発想だが、本作の音響設計は徹底した「 引き算 」の発想で作られている。
その結果生まれてくるのは、極めて不自然な音空間だ。
皆さんは「 無響室 」というものに入られたことがあるだろうか?
特殊な素材と設計で音の反響をほとんど無くした部屋のことだ。
これがなかなか異様な雰囲気で、音の無い空間が、実体のある何かで満たされているような奇妙な感覚を覚える。
敏感な人なら、すぐに気分が悪くなって出たがるほどだ。(一緒に行った友人がまさしくそうだった)
何か変な超音波でも出しているならともかく、反響音が無いことが何故これほど不気味なのか不思議だが、それほど我々は「 あって当たり前の音 」を無意識のうちに感知しているということだろう。
この映画の音響設計は、無響室に近い不自然さを感じさせ、しかもそこに普段は聞くことがない「 音楽ならざる音楽 」が加わる。
その聴覚の混乱が、言い知れぬ不安を掻き立てる…
このような音楽 / 音響による恐怖演出は、最初の「 黒髪 」と最後の「 茶碗の話 」において顕著だ。
美しさの中に潜む不自然さ
一方「 雪女 」と「 耳無芳一の話 」では、もっぱら美術や撮影の面で不自然な感覚を強調している。
「 耳無芳一の話 」の海辺のシーンを除けば、この2本は全編が露骨なまでのセット撮影だ。
背景が一目瞭然の書き割りで、映画と言うより舞台劇を見ているような印象すら覚える。
ただし書き割りの背景に描かれているものは、現実の代用となる風景ではない。
特に「 雪女 」では、実際の風景とはまるで違う絵が描かれている。
黒澤明は「 夢 」の「 鴉 」というエピソードで、VFXを駆使して背景をゴッホの絵そっくりにしたが、その先取りと言えるものかもしれない。
背景の絵柄は日本の洋画の流れを組むもので、文字通り絵画的な美しさがある。
しかし調和に満ちた美しさとはかけ離れていて、全てが不穏だ。
特に「 雪女 」の最初の方には、何者かの目を思わせるような絵柄が出てくる。
日本の有名な洋画家 靉光(あいみつ)の代表作「 眼のある風景 」(1938年)を想起させるもので、色彩やうねうねとした線から見ても、実際にあの絵からインスピレーションを受けたものかもしれない。
そんな特殊な背景は、音楽 / 音響と同様、強い不自然さを感じさせるもので、「 カリガリ博士 」など戦前のドイツ表現主義からの影響も感じられる。
このような空間造形は、日常慣れ親しんだ空間とは違う不自然さに加え、「 何者かに見つめられている 」という不気味さも感じさせる。
宙に浮かぶ視点
この「 何者かに見つめられている 」という不気味さをさらに強調するのが、カメラのポジションだ。
本作を注意深く見ていくと、高さ2〜3mからの俯瞰撮影が非常に多いことに気づく。
この2〜3mという高さがなかなか絶妙だ。
何もない場所に浮かんで、そんな高さから人の行動を見ることなどまずありえない。
これがもっと高くなると神の視点のようになってくるが、それよりはずっと日常に近く、しかし明らかに日常生活には存在しない異様な視点。
人を見下ろす感じなので、何か意思のある存在が、文字通り上から目線で人を見つめている感じがする。
しかもその正体や意思がよく分からないことが、怖さを醸しだす。
このような演出は、本作だけでなく、霊的なものが登場するホラー映画でしばしば用いられている手法なので、次にその手の映画をご覧になる時は注目してみるといいだろう。
逆に言えば、そのようなカメラポジションが1つの定型になっていたからこそ、全編手持ちカメラの主観的な視点だけで構成した「 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 」(1999)が当時は新鮮に映ったわけだ。
あれはあれで、本作とはまったく別の非日常的な視点を提示した作品と言えるだろう。
意味が分からぬ怖さ
4つのエピソードのうち「 黒髪 」「 雪女 」「 耳無芳一の話 」は、話の論理が比較的筋道立っている。
最後まで見れば、なぜそういうことが起きるのか、霊的な存在がどんな意図を持っていたかは大体理解できる。
ところが最後の「 茶碗の話 」だけは例外だ。
一体何が起きているのか、どうしてそうなるのか、霊的な存在の意図は何なのかが、皆目分からない。
そのため物語としての完成度はともかく、無条件に怖いという観点から言えば、このエピソードが間違いなくベストだ。
しかも本作は、「 黒髪 」と同様、音の引き算演出がフル活用されていて、感覚と知性の両面から神経に揺さぶりをかけてくる。
どんな恐怖も、原因と対処法さえ分かれば、ある程度怖さは和らぐ。
最も怖いのは、原因も対処法も分からないまま、明らかに不吉な何かがやって来るという恐怖だ。
そういう観点から言えば、たとえば「 リング 」は、前半は紛れもないホラーだが、後半は「 原因の究明と対策の発見 」に話の焦点が絞られ、ホラーではなく謎解きミステリーに変貌していくため、怖さはどんどん薄れていく。
ただし見つけたはずの対策に意味がなかったという展開で、もう一度強引にホラーに引き戻したことで、あれだけの人気を獲得したわけだ。
本作が後世に与えた影響
そのような「 意味 / 正体が分からない怖さ 」や「 音の引き算 」など、本作の特徴を最も色濃く受け継ぎ、さらに現代的にブラッシュアップしている作家は、黒沢清だろう。
中でも「 回路 」(2001)は、「 怪談 」が持つ怖さを受け継ぎながら、「 何もしなくても、ただそこに存在するだけで怖い幽霊 」を描き出すことに成功した、ホラー映画の金字塔だ。
ただし、明確な因果関係を描かないからこそ怖い映画話法を「 まったく意味が分からない 」と否定的に受け取る人も多いため、公開から20年以上経った今も賛否両論がある作品だ。
「 意味が分からないから怖い 」と思う人と「 意味が分からないから怖くない 」と思う人…世の中は面白い。
黒沢清自身は、先鋭的な作風のためか、映画マニア以外にはそれほど知られていないが、彼の影響を受けて、虚仮威しに頼らない「 静かな恐怖演出 」が様々な作品で見られるようになったのは確かだ。
たとえば「 リング 」と「 呪怨 」を比べてみれば、明らかに後者の方が「 怪談 」や黒沢清の系譜に近い静かな演出がなされていることが分かる。
監督の清水崇は映画美学校で黒沢清の薫陶を受けていたそうなので、当然と言えば当然かもしれないが…
さしずめ黒沢清は「 怪談 」の子どもで、清水崇は孫に当たるのかもしれない。
現実的な恐怖
最後に半ば余談。
この「 怪談 」を製作したのは「 文芸プロダクションにんじんくらぶ 」という会社だ。
岸惠子・久我美子・有馬稲子という3人の女優を中心に作られた独立プロダクションで、本作と同じ小林正樹監督の「 人間の条件 」や、篠田正浩監督の「 乾いた花 」などの話題作を製作。
まだ五社協定に縛られていた日本映画界において、1950年代半ばから60年代半ばにかけて異彩を放つ存在だった。
ところがこの「 怪談 」は、先述のとおり批評家からの評価は高かったが、興行的には大失敗。(商売の観点から言えば183分は長すぎる…)
にんじんくらぶは、あえなく倒産することになった。
これも霊的なものの祟りだろうか?
ともあれ当事者にとっては、平家の怨霊よりも借金取りの方が怖かったに違いない…
文・ライター:ぼのぼの