デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章
あらすじ
東京でハイテンション女子高生ライフを送る、小山門出こやま・かどでと“おんたん”こと中川凰蘭なかがわ・おうらん。学校や受験勉強に追われつつも毎晩オンラインゲームで盛り上がる2人が暮らす街の上空には、3年前の8月31日、突如宇宙から出現し未曽有の事態を引き起こした巨大な〈母艦〉が浮かんでいた。非日常が日常に溶け込んでしまったある夜、仲良しクラスメイトに悲劇が起こる。衝撃と哀しみに打ちのめされる二人。そんな中、凰蘭は不思議な少年に出会い「君は誰?」と問いかけられる。その途端、凰蘭の脳裏に、すっかり忘れていた門出との過去が一瞬にして蘇る
公式HPより引用
原題
なし
公開日
2024年3月22日
上映時間
120分
予告編
キャスト
- 黒川智之(アニメーションディレクター)
- 吉田玲子(脚本)
- 浅野いにお(原作)
- 幾田りら
- あの
- 種崎敦美
公式サイト
半世紀に及ぶサブカルの集大成
浅野いにおの原作漫画は読んだことがない。
だがこの映画版は、妙に高い評判が聞こえてきたのに加え、脚本が「 映画 聲の形 」「 若おかみは小学生!」など日本アニメの脚本家として最高峰にいる吉田玲子であることに気づき、見ることにした。
結果、その世界観に圧倒され、後半にいたって予想もしない展開を見せるストーリーに鳥肌が立った。
本作の一体何がそんなに凄かったのか。
まずは1970年代以降のさまざまなサブカル要素を大鍋にぶち込んで煮詰めたような濃すぎる設定だ。
作品の大きな下敷きとなっている「 ドラえもん 」をはじめ、「 サザエさん 」「 デビルマン 」「 ワダチ 」「 うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー 」「 アキラ 」「 天空の城ラピュタ 」
「 機動警察パトレイバー2 」「 新世紀エヴァンゲリオン 」「 魔法少女まどか☆マギカ 」といった漫画 / アニメに通じる要素が満載だ。
とりわけ1990年代の空気を色濃く感じさせるのは、宮台真司が唱えた「 終わりなき日常 」という言葉がピッタリの世界だからだ。
原作者の浅野いにおは1980年生まれなので、最も多感な時期に、あの時代の空気を吸い込んだのだろう。
その頃に一世を風靡した岡崎京子の漫画に通じる乾いた絶望感も漂う。
空に浮かぶ巨大な母艦のヴィジュアルは「 インデペンデンス・デイ 」や「 第9地区 」を思わせるし、古典的なSFやハリウッド映画からの影響ももちろん見出せる。
そして誰が見ても分かるとおり、この作品は「 3.11 」のアレゴリーとなっている。
原作漫画が描かれたのは2014〜22年なので、直接的なモチーフとなっていることは明らかだ。
そのため同じく3.11をモチーフにした「 シン・ゴジラ 」とも強い共振性を持っている。
いつ動き出すか分からない凍結ゴジラが東京駅に置かれたままの世界、つまり「 シン・ゴジラ 」の続編のようなものとして見ることも可能だ。
終わりなき日常
いつ決定的な破滅をもたらすかもしれないUFOが上空に存在しながら、他愛ない日常を過ごす女子高生たち。
その姿は、3.11という未曾有の災害を経験し、メルトダウンした原発を抱えながら、まるでそんなものは存在しないかのような日常を生きる大多数の日本人の戯画化だ。
それと共に、ここで筆者の頭の中を駆け巡ったのは、先述のとおり「 終わりなき日常 」という言葉だ。
これは宮台真司が著書「 終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」(1995)で提唱した概念で、本来の意味は「 輝かしい未来などないと分かってしまった時代に、人生の確かな指針を失ったまま退屈な日常をだらだらと生きていくこと 」
そう聞くと非常にネガティブな印象だが、これはサブタイトルにもある通り、オウム真理教が幻想でしかない未来や空虚な理想を掲げてテロを起こしたことへのアンチテーゼであり、この説明だけでは分かりにくいポジティヴな意味を含む概念だ。
しかし言葉自体は特に難解なものではなかったこともあり、その後「 終わりなき日常 」という言葉は、宮台真司が提唱したものとは少し違った意味合いでも使われるようになっていく。
文字通り「 特別なことなどない日常が果てしなく続く 」といった、ネガティヴ要素が強めのデストピア的なニュアンスだ。
ニーチェの永劫回帰と結びついたようなニュアンスで語られることもある。
筆者が本作で感じた「 終わりなき日常 」には、それらの意味が複合的に含まれている。
主人公たちは、UFOという圧倒的不条理が頭上に存在しながらも、青春時代らしい馬鹿に明け暮れた日々を過ごす。
「 こんな日常がずっと続いてほしい」という思いと「こんな日常がいつまで続くのか。
自分たちは本当に大人になる日を迎えられるのか」という不安感…
これ自体は青春期のかなり普遍的な思いなのだが、そこに世界全体が引っ繰り返るかもしれないというデストピア要素が加わることで、
「 こんな日常が続いてほしい 」という思いと「 こんな日常がいつまで続くのか 」という思い、その両方に強力なブーストがかかる。
非セカイ系作品?
本作を見ていてもう1つ脳裏に浮かんだのは「 非セカイ系 」という言葉だ。
「 セカイ系 」という言葉はアカデミックな文脈ではなくネット社会から生まれたものなので、「 終わりなき日常 」に比べると、かなり曖昧な意味で使われている。
ただ筆者はおおむね「 凡庸な主人公の人生が、思いがけず世界の運命に関わることになる物語 」という感じで解釈している。
ほとんどは「 内向的で繊細な自分の内面 」と「 巨大で無慈悲な世界 」がそのまま直結したような内容で、自意識の歪んだ発露に見えるものも多い。
昔のヒロイックなロボットアニメなどと違い、積極的に人類や正義のために戦うというより、本人の意に沿わぬまま巨大な運命を背負わされ、敵よりも自分のメンタルとの戦いが最大の壁だったりする。
具体的には、「 新世紀エヴァンゲリオン 」がしばしば代表的な作品として挙げられる。
実写では紀里谷和明監督の2023年作品「 世界の終わりから 」が絵に描いたようなセカイ系作品だった。
この作品(通称「 デデデデ 」)の場合、UFOの存在による静かな戦争状態に置かれた東京が舞台だ。
世界の破滅につながるかもしれない状況、見慣れた街に並ぶ兵器、そして実際に人が死んでいるにもかかわらず、「 自分たちにできることなどない 」とばかりに、女子高生たちの凡庸な日常の描写が続く。
それを見て「 これはセカイ系ではない、非常にユニークな非セカイ系作品だ 」と思った次第だ。
終わりなき日常は終わるのか?
ところが…だ。
この作品、後半になると突然予想もしない展開を見せる。
これがかなり衝撃的だ。
しかもその「 回想 」は、前半で延々と描かれてきた物語と明らかに矛盾するものだ。
これは一体何なんだ?
マルチバースなのか、偽の記憶なのか、あるいは今の世界が虚構や幻想なのか…その真実は明かされぬまま、後章へと持ち越される。
前章のラストを飾るのは、ある壮絶な地獄絵図だが、そこにおいても主人公たちは傍観者でしかない。
彼女たちの意思ではどうにもならないようなところで、世界の運命が決定的に動き出す。
だがそれと「 あの回想 」は一体どのように結びつくのか?
つまり今後の展開によっては、非セカイ系だと思っていた作品が、一挙にセカイ系作品に変貌する可能性もある。
しかしこれがセカイ系の典型的なフォーマットに則った作品なら、前振りに当たる部分が長過ぎはしまいか。
セカイ系にも非セカイ系にも当てはまらない、まったく別の物語世界に突き進んでいく可能性もある。
いずれにせよ、ここまで広げた風呂敷を畳むのは生半可なことではなく、さらに予想もしない展開が待ち構えていることは間違いなさそうだ。
後章のラストに広がるのは一体どんな世界なのか。
彼女たちの終わりなき日常は終わるのか、あるいは形を変えて続いていくのか…
今はそれを1日も早く確認したい思いでいっぱいだ。
文・ライター:ぼのぼの