「 ありふれた教室 」誰も望まぬ負のスパイラルはどうして生まれたのか
2023年度のアカデミー国際長編映画賞にノミネートされたドイツ映画。
中学校で起きた些細な盗難事件が、教師や生徒の間に巨大な不信感を生み出し、人間関係を崩壊させていく。
誰も望まぬ負のスパイラルはどうして生まれることになったのか。
ありふれた教室
あらすじ
仕事熱心で正義感の強い若手教師のカーラは、新たに赴任した中学校で 1 年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を獲得しつつあった。そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自の犯人捜しを開始。するとカーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物が盗みを働く瞬間が記録されていた。やがて盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱、同僚教師との対立を招いてしまう。カーラは、後戻りできない孤立無援の窮地に陥っていくのだった……。
公式サイトより引用
原題
Das Lehrerzimmer
公開日
2024年5月17日
上映時間
99分
予告編
キャスト
- イルケル・チャタク(監督)
- レオニー・ベネシュ
- レオナルト・シュテットニッシュ
- エーファ・レーバウ
- ミヒャエル・クラマー
- ラファエル・シュタホビアク
- ザラ・バウアレット
- カトリン・ベーリシュ
- アンネ=カトリン・グミッヒ
公式サイト
学校にとどまらない人間社会の縮図
今年のアカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされていた作品だが、「 関心領域 」と「 PERFECT DAYS 」に話題が集中していたため、ほぼノーマークだった。
しかし、周りの評判が非常にいいので遅ればせながら鑑賞し、圧倒された。
一瞬の緩みもない99分間。
そのドラマ的な濃密さは、3時間の長編を見たかのようだ。
ドイツの中学校で起きた些細な盗難事件を発端に、教師と生徒 / 教師と教師 / 生徒と生徒の間の信頼関係が崩れていくという物語に、それほどの新味はない。
だがそのありふれたアイデアを、これほど精緻極まりない語り口で描き、教育現場にとどまらず現代社会のどこでも起きそうな普遍的人間ドラマとして描いた作品は、寡聞にして知らない。
この悲劇はどこでも起こりうる
日本の配給会社はサスペンススリラーという切り口で売りたがっているようだし、見ている間、ミヒャエル・ハネケやアンリ=ジョルジュ・クルーゾー、フリッツ・ラングらの映画が脳裏を横切ったのは事実だ。
次にどんな破滅的な出来事が起きるか分からない予感には確かにドキドキさせられるが、やはりそのようなサスペンスが主眼の映画ではなく、
人間同士のコミュニケーション不全や相互不信が招く悲劇を描いたドラマとして見る方が妥当だろう。
主人公は若い女性で仕事熱心。生徒のことを真剣に考えているよい教師だ。
他の登場人物もまた、教師・生徒・保護者を問わず、根っからの悪人はどこにもいない。
それなのに、こんな誰も望んでいない状況がなぜ発生してしまったのか。
コミュニケーションの行き違い、わずかな不満や怒りのはけ口が全て悪い方向に働き、負のスパイラルを巻き起こしていく恐さとリアリティ…。
実際、これまでの人生を振り返ると、学校や会社など人間が集まる場所では、大なり小なりこのような出来事が起きていたことを思い出す。
物語の背景にあるのはドイツ社会の多様性
興味深いのは、主人公の教師カーラ(レオニー・ベネシュ)がポーランド系として設定されていることだ。
ドイツとポーランドの歴史的関係を考えると、日本でいえば在日韓国人に近いポジションだろう。
こういう点も彼女を孤立させる一因なのか…と思っていたのだが、よく見ると、他の先生や生徒も人種的にかなり多様だ。
分かりやすいゲルマン系の白人はむしろ少数。
カーラと対立しがちなリーベンヴェルダ(ミヒャエル・クラマー)も明らかに黒人?アラブ系?の血が混じっている。
フランス映画ではもはや定番となった人種的に多様な学校の光景だが、ドイツでも地域や社会階層によってはこういう感じなのか。
なお監督・脚本のイルケル・チャタクもトルコ系ドイツ人らしい。
そのような人種的バックボーンも当然ドラマ中の人間関係に反映されていると思うのだが、この学校がドイツ社会の中でどのような位置を占め、
登場人物の間にどのような人種的確執があるのか…日本人の私にはそこまでリアルに実感できないのが残念だ。
「 不寛容 」であることの功罪
さらにもう1つ興味深いのは、この学校が明確に「 不寛容主義 」を掲げていることだ。
「 不寛容 」というと諸悪の根源のようなイメージだが、この映画を見ていると、少し違う思いを抱く。
おそらくこの学校の不寛容主義は、徹底的な法治主義に近いものではないだろうか。
このように人種も文化も違う人間が寄り集まるところでは、むしろ一定のルールに厳格に従うことで、
差別やエコ贔屓や教師の個人的資質に左右されることなく平等が実現できる…そのようなポリシーのもとに採用されたものではないかと推測される。
そしてこれまでは、それで概ねうまくいっていたのではないだろうか。
だから生徒たちへの繊細な配慮に欠ける部分はあるが、人種差別的な要素は全く感じられない。
おそらくこの学校で一番の価値は「 フェアであること 」なのだろう。
しかし人間という面倒な生き物が多数集まったとき、ルールやフェアネスだけでは割り切れない部分がどうしても出てくる。
逆に言えば、そこまで全ての人間を平等にしうるルールを作ることは、現実的に不可能ということだ。
そのしわ寄せが、いつどんな風に表れ、最悪の形でスパイラルを起こすと何が起きるのか…それを描いた物語だとも解釈できる。
ルービックキューブに託された思い
ただでさえややこしい人と人の関係。
そこに秩序の維持や、教師と生徒の権力勾配、教師と保護者との関係、生徒同士の対立や連帯、メディアを通じた噂など、さまざまな変数が加わるのを見ていると、
こんな日常社会の問題にさえ、適切な解決策を見出すのは無理ではないかと思えてくる。
しかし困難ではあるが、きっとどこかに解決策はあるはずだという思いも、ルービックキューブという小道具に託されている。
それだけに、あのミッドクレジットシーンが重い。
濃密なドラマを支える映画技術の確かさ
ほぼ学校の中だけで展開する会話劇で、地味といえば地味なのに、一瞬も退屈しないのは、カメラワークや編集などのリズムが秀逸だから。
次のシーンの音が先行して前のシーンに入ってくる手法が多用されていることからも分かるように、とにかくテンポがいい。
それでいて軽薄にはならないセンスのよさ。
全ての登場人物を善悪では割り切れない存在として描き、あらゆる伏線を回収してくる脚本の緻密さは言を俟たない。
今年のアカデミー脚本賞は、同じ外国映画なら、「 落下の解剖学 」ではなく本作にこそ送られるべきだったと思う。
そしてこの作品は画面がスタンダードサイズだ。
最初のうちはスタンダードで撮る意味が分からず、やはり近年の映画で最もスタンダードサイズを表現方法として活用していたのは「 サウルの息子 」(2015年)だったなあ…なとど考えていたのが、
話が進むにつれて、まさに「 サウルの息子 」と同様、この画面サイズが閉塞感の秀逸な表現として機能し始めたのには震えがきた。