役所広司 主演「 PERFECT DAYS 」ネタバレなし考察・解説レビュー、ラストシーンに注目

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「 パリ、テキサス 」や「 ベルリン・天使の詩 」など知られるドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダースが監督した日本映画「 PERFECT DAYS 」

主演の役所広司がカンヌ国際映画祭で男優賞を受賞。

キネマ旬報のベストテンでは第2位。

日本アカデミー賞では監督賞と主演男優賞を獲得。

受賞こそ逃したものの米アカデミー賞でも国際映画賞にノミネートされるなど、数々の賞賛に包まれた作品だ。

本記事では、PERFECT DAYSを深掘りしていく。

目次

PERFECT DAYS

©︎PERFECT DAYS

あらすじ

トイレ清掃員として働く平山。趣味は音楽や読書、写真を楽しみながら平穏な毎日を過ごしていた。そんな彼に、ある時思いもよらぬ再会が訪れるのだった。

原題

PERFECT DAYS

公開日

2023年12月22日

上映時間

124分

予告編

キャスト

  • ヴィム・ヴェンダース(監督・脚本)
  • 高崎卓馬
  • 役所広司
  • 柄本時生
  • 中野有紗

公式サイト

PERFECT DAYS

考察・解説レビュー

©︎PERFECT DAYS

謎だらけの話題作

本作は、誰が見ても素直に感動できるというタイプの作品ではない。

極力説明を排した作りによって、多くの謎に満ちた作品となっている。

見る人によって解釈の幅が広く、その感想には正反対と言っていいものも目立つ。

主人公である平山(役所広司)の行動原理についてはほとんど語られないため、「 不安定な労働者の日常を美化するもの 」と批判する声も多い。

権威ある賞の威光で目立ちにくいが、ネット上の反応はむしろ賛否両論といった方が正しい状況だ。

そのような否定的意見が出てくることは理解できる。

元々が渋谷区内のトイレを刷新するTHE TOKYO TOILETというプロジェクトのPRとして始まった作品だ。

製作にファーストリテイリング(UNIQLO)や電通の人間が深く関わっていることもあり、政治的な意味でさまざまな疑念が湧くのも無理なからぬことだろう。

しかし私は本作に深い感銘を受けた。

確かに「 不安定な労働者の日常を美化するもの 」と受け取られかねない側面があることは否定しない。

だが私にとってこの映画の本質はかなり違うところにある。その辺について書いてみよう。

ただしこれは、あくまでも〈筆者個人にとっての「PERFECT DAYS」〉であり、以下の考察が正解だということではない。

この映画は、安易な正解探しや答え合わせのような行為を拒否する作りになっている。

そもそも平山はなぜトイレ掃除の仕事をしているのか

平山は異常なほど無口で、同僚のタカシ(柄本時生)ともプライベートな会話を一切しようとしない。

馴染みの飲み屋や古本屋などはあるが、そこでも穏やかに一杯引っかけテレビを見たりするだけで(彼の家にはテレビもラジオもない)、会話らしい会話は存在しない。

彼の脳内を伺わせるものは、ずらりと並んだ古本とカセットテープから流れる音楽(主に古い洋楽)くらいだ。

平山を役所広司と同じ60代後半だとしよう。

その年代から見ても、本や音楽のチョイスは「 知る人ぞ知る 」といったものがほとんど。

本はフォークナーや幸田文。

音楽もパティ・スミスやルー・リードはまだしも、唯一流れる日本語の歌、金延幸子の「 青い魚 」などマニアックもいいところだ。

彼がかなり文化に造詣の深い人物であり、同時に、ある時点で新しい文化に接することをストップした様子が伺える(そもそもメディアからして古本にカセットテープだ)

では平山は、そのような知的能力を生かすことなく、なぜトイレ掃除の仕事に就いているのか? 

明確な説明はない。

それは観客の想像と解釈に委ねられている。

私は最初に見た時から、これは自らに科した「 罰 」であろうと思った。

職業差別になることを恐れてか皆あまり口にしようとしないが、私が見るかぎり、この映画におけるトイレ掃除は「 最底辺の仕事 」として位置づけられている。

迷子の子どもを連れて行ったところ母親から汚物のように見られる描写やタカシの台詞など、社会的に虐げられた仕事だという描写は幾つもある。

その一方で、平山がトイレ掃除を「 人々の役に立つ仕事 」として誇りに思っているような描写はどこにもない。

極めて勤勉に仕事に取り組んでいるが、それは、この仕事を愛したり誇りに思ったりしている証しにはならないだろう。

勤勉に取り組んでいるのは、そうでなくては自らに科した「 罰 」としての意味を成さないからだ。

平山の罪と罰

これはあくまでも想像だが、平山は過去に何かしらの罪を犯したのだろう。

学生運動や政治的テロのようなものかもしれない。

1960〜70年代の洋楽は、そのイメージを想起させる。

実家が裕福であることから、資本主義的な生き方に反発し、極端な形で否定するような道に走ったのだろうか。

ただし姪が平山を知っていることから、平山が実家と袂を分かったのは、せいぜい10年以内。

リアリズムで考えると、さすがに学生運動は無さそうだ。

あるいは浮気をした妻や恋人を殺してしまったのかもしれない。

殺さないまでも、社会的地位を失うような傷害事件を起こしたのかもしれない。

タカシの「 平山さん、結婚してないですよね?」という台詞に対してかすかに発した黒いオーラ、姪を含め女性に対して妙にウブな反応を見せる描写など、

平山の60年以上に及ぶ生涯において、女性との関係が決して良好なものではなかったことを伺わせる。

そのどちらかであれば何年か服役していたはずだが、法的な罪には問われなくても、たとえば愛する人を自殺に追いやってしまうような、自分で自分を許せない罪を背負い、自らに罰を科した…この可能性が一番大きいように思う。

前の2つであれば、刑に服してまがりなりにも罪を償ったことになるが、この場合、自分で自分を罰するほかないからだ。

それらの内のどれであれ、彼は罪の意識によって、自らを「開かれた牢獄」に入れたのだ。まるで儀式のごとく、毎日判で押したように同じ行動をする様子も、刑務所に入った囚人を想起させる。

後半に出てくる妹(麻生祐未)とのシーンなどから、平山の実家がかなり裕福であること、しかし実家とは基本的に縁を切ったこと、父親との間に強い確執があったことが分かる。

しかし父親との確執で家を飛び出しただけなら、別の場所で自分の知的能力を生かした仕事をすればいいはずだ。

あえてトイレ掃除という仕事に就く理由にはならない。

それを理解するには、やはり「 罪と罰 」という概念が必要になってくる。

半ば余談になるが、まだ映画が上映中の2024年1月25日、連続企業爆破事件に関与し、身分を偽りながら49年間も逃亡生活を続けていた桐島聡容疑者が、自らの正体を明かし、4日後に癌で亡くなった。

その後マスコミによって書きたてられた彼の「 内田洋 」(偽名)としての逃亡生活は、不気味なほど平山の生活と共通項点が多かった。

平山と違って社交的ではあったようだが、当然のことながら自分の過去については何も語らなかったという。

ヴェンダースらは桐島の存在を知っていてモデルにしたのではないかと思うほどだ。

もちろん桐島は「 罰を逃れるため 」に、一方平山は「 罰を受けるため 」に世捨て人のような生活をしていたので、ベクトルは正反対だ。

だが桐島の生活があのようなものだったということで、平山が過去に何らかの罪を犯したという解釈が、自分の中でますます信憑性を帯びたことも事実だ。

生きているかぎり、人は喜びを見出さずにはいられない

平山が自ら入った「 開かれた牢獄 」は、しかし完璧なものではない。

その禁欲的な生活は、彼にとって確かに「 罰 」ではあるのだが、フィルムカメラで写す木洩れ日に象徴されるように、彼の生活の中に存在するささやかな喜びを描き出す。

普通の生活をしていたら気がつかないであろうささやかな喜び。

それは、あのような生活をしていたからこそ得られたものだ。

あの木洩れ日のシーンを見て、ロシアの作家チェーホフの戯曲「 三人姉妹 」に出てくる一挿話を思い出した。

フランスの大臣が汚職事件で牢獄に入ったときに、窓から見えた小鳥の姿に感動を覚えたという話だ。彼が大臣だった頃には気にも止めなかった小鳥が、牢獄の窓から見たとき、とても愛しい存在に感じられた。

だが釈放されて元の世界に戻った時、彼は再び小鳥のことなど気にも止めなくなった…そんな話だ。

平山は多くの喜びを自らに禁じたが、一方ではそんな生活だからこそ獲得した喜びもあるのだ。

逆に言えば、自分で自分に科した罰の中においてさえ、人間は新たな喜びを見出してしまうもの。

生きているかぎり、喜びを見出さずにはいられない存在なのだ。

彼はそこに多少の後ろ暗さを抱きながらも、他人との交流だけはほとんど断つことで、自らを牢獄に閉じ込め続けている。

ニコという名のファムファタル

しかし長く続いた彼の牢獄生活に、姪のニコ(中野有紗)という闖入者がやってくる。

映画の後半は、波ひとつ無い水面のようだった平山の生活に、かつてないほど大きな波紋が生じる時間を描いている。

この辺はルキノ・ヴィスコンティの「 家族の肖像 」とよく似た設定だ。

なお、「 PERFECT DAYS 」というタイトルがルー・リードの歌から取られている以上、このニコという名前も、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと共演して歴史的名盤を残した、あのNicoに由来するものだろう。

「 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ 」の中でもトップを争う名曲「 宿命の女 Femme Fatale 」は、ニコがリードヴォーカルを取ったナンバーだ。

この映画の中のニコも、平山にとって間違いなくFemme Fataleのポジションにいる。

他人との深い関係を断ったはずの平山だが、さすがに家出してきた姪っ子をぞんざいに扱うわけにもいかない。

しかもニコは、自分が捨ててきた生活よりも、今の自分の生活に対して奇妙な親近感を抱いている。

その親近感は、平山の主旨とはかけ離れたものであり、明らかにその本質を理解してはいないのだが、ニコの素直さについ心を許し、彼女が自らのテリトリーに入ることを許してしまう。

そのテリトリーは物理的にはすべて平山のものだが、結果的にはニコが牢獄に入ると言うよりも、むしろ平山の方が外の世界に引っ張り出されることになる。

神社で木洩れ日を写真に写すというささやかな喜びも、同じカメラでニコと共に写すと、かつてない新鮮な喜びとなる。

自分が捨て去った過去の生活に当たり前に存在していた、人と接する喜びを否応なしに思い出してしまう平山…。

いずれにせよ、このような生活をいつまでも続けるわけにはいかない。

平山は銭湯から電話をして、ニコが自分の家にいることを実家に伝える。運転手付きの車でニコを迎えにきた妹は、「こんなところに暮らしていたんだ」とおそらく何の悪気も無く口にする。そして「本当にトイレ掃除をしているの?」という問いに平山が頷くと、涙ぐむ。それに対して何も言わない平山。この描写からも、平山がポジティヴな理想を掲げて今の生活を送っているわけではないことが察せられる。

帰るのを嫌がるニコに対し、平山は「 また来ればいいから 」と言う。

それは一義的にはニコをなだめるための言葉だが、無意識にであれ、平山が外界との細いつながりを手放したくないと思ってしまった証しだろう。

重なることで濃くなる影

ニコが去り、再び牢獄生活に戻っていく平山。

だが捨てたはずの外界と一度つながってしまった以上、完全な後戻りは難しい。

やがて、もう1つイレギュラーな出来事が起きる。

行きつけのスナックのママ(石川さゆり)が店内で男と抱き合っているのを見てしまったのだ。

平山は、このスナックにおいても、まともな会話をしようとはしない。

だが作品全体を眺めたとき、どうも平山はこのママにほのかな思いを抱いていた可能性がある。

もちろん自ら牢獄に入った彼に、それを具体的な形に発展させようという気はなかったはずだが、それでも心惹かれたものの側におらずにはいられなかったのだろう。

そのように考えないと、平山の生活の中であのスナックの存在は浮いている。生きているかぎり、人間は喜びを見出さずにはいられない存在なのだ。

その後、酒とタバコを買って隅田川の縁にたたずむ平山。

タバコを吸うのは久しぶりだという動揺ぶりからも、彼がママに対して抱いていた思いが伺える。

そこに現れたのは、先ほどママと抱き合っていた友山(三浦友和)という男だ。

ほぼ平山の顔を見ていない友山が、川縁にいる平山を見つけるのは、さすがにありえない話で気になったが、そこは映画ならではの嘘として許容しよう。

友山は平山に対し、自分がママの元夫であること、病気で余命宣告を受け、かつての妻に感謝の意を伝えたくて訪れたことなどを語る。

話の流れから、平山は友山に影踏みを提案し、初老の男2人が子どものように影踏みに興じることになる。

「 影は重なると濃くなりますよ 」と、かつてないほど積極的に他者と関わっていく平山。

自分とは違う形で人生の影を抱えた友山の話が、ニコとの交流でヒビが入った平山の心を、さらに大きく打ち砕いたためだろう。

その姿は、もはや自らを牢獄に閉じ込めた男のものではない。本来なら平山は、このように他人と関わって生きる人物だったのだ。

偽りのPERFECT DAYS

そしてラスト。

これまでと同じように車で仕事に向かう平山。だがニーナ・シモンの「 フィーリング・グッド 」が流れる中、平山はそれまで見せたことのない悲しみに満ちた表情を見せる。

その表情の変化を長いワンショットでとらえたまま、映画は終わる。

全編で最も印象深く、同時に最も観客1人1人の想像に委ねられたシーンだ。

多くの人はあの表情に悲しみを見ると思うが、それさえも断定できるわけではなく、人によってさまざまな意味や感情を見出すことだろう。

私があの長いワンショットから感じたのは「 悔恨 」の念だ。

それまでは開かれた牢獄で暮らし、自らを罰したつもりでいた平山。だがその選択は本当に正しかったのか? 

自分が切り離した世界にも十分過ぎるほどの影(≒罰)はある。

ニコに象徴されるような光もある。

その光と影のコントラストは、むしろ切り離した世界の方がはるかに大きい。

自分は本当は人と接することに恋い焦がれ、そこに喜びを見出していた。

影の世界に身を置いたつもりでいながら、光の世界と接する回路を完全に閉じることもできなかった。

だとすれば、元の世界にいて、他人と接する中で喜びや苦しみを分かちながら生きていく道もあったのではないか。

自分がこのような生活に身を置いたのは、罰のようでいながら、実際には真の苦しみからの逃避に過ぎず、問題の本質に何も向き合っていなかったのではないか。

自分で自分に科した牢獄生活は、単なる自己満足だったのではないのか…

そんな思いが次から次へと溢れ、ついに決壊したのが、あのラストの表情なのだと感じられた。

ここまで書けば分かる通り、「 PERFECT DAYS 」というタイトルは明らかに反語表現だ。

前半で描かれる明鏡止水のごとき平山の生活。

それは、世間的には一切評価されなくても、禅的な意味でのPERFECT DAYSに感じられる。

しかし、それは偽りに過ぎなかったことが最後に分かる物語ということだ。

繰り返すが、この映画は劇中から説明を極力排し、物語のほとんどを観客の解釈に委ねている。

見る人の数だけ「 PERFECT DAYS 」があると言っていい。

この文章は、あくまでも〈私にとっての「PERFECT DAYS」〉はこんな映画だったという話だ。

あなたにとっての「 PERFECT DAYS 」は、どんな映画でしたか?

執筆者

文・ライター:ぼのぼの

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