伝統的に村民参加で祭で薪能が開催される深緑豊かな山あいの霞門村。
しかし、7年前の事件を境に虐げられる者の支配する者達に別れ、文明の導入による無変化と変化を描く。
流石はスターサンズの故・河村光庸と藤井道人監督のタッグ。
現代日本の社会の縮図を描いている。
演技の凄味。
村社会と言うDNAを考察。
なぜ、能をモチーフにしたのか?
能の基本的な構成をサクッと解説。
ヴィレッジ
あらすじ
公開日
2023年4月21日
上映時間
120分
キャスト
- 藤井道人(監督)
- 横浜流星
- 黒木華
- 一ノ瀬ワタル
- 奥平大兼
- 作間龍斗
- 淵上泰史
- 戸田昌宏
- 矢島健一
- 杉本哲太
- 西田尚美
- 木野花
- 中村獅童
- 古田新太
予告編
公式サイト
作品評価
- 映像
- 脚本
- キャスト
- 音楽
- リピート度
- グロ度
- 総合評価
考察レビュー
本作の考察焦点を3点に絞る。
- 本作を藤井道人の直近作品の集大成と捉えるか?
- 故:河村光庸と藤井道人のタッグ「 3部作 」と捉えるか?
- スターサンズ作品と捉えるか?
所感の焦点によって若干変化する。
上記とは別に能の基本演出が継承されてると考察している。
「 ヤクザと家族 The Family 」「 余命10年 」の演出融合に思えた
藤井作品で好きな要素として映像の拘りを常々と感じてる。
透明硬質なクリスタルを透過して映像が描かれる。
「 ヤクザと家族 The Family 」では鈍色の中のキリリと張詰めた硬質な空気。
「 余命10年 」では暖かく光の中の柔和な空気。
その空気の中で生きる人々の群像と想いが紡がれる。
同調圧力 / 社会格差 / 人の心の遷(うつ)ろいの縮図
日本社会に蔓延る社会の声にならない声の縮図の提起。
本作は藤井道人と盟友とも言える横浜流星の魂の削り出しとも言える凄みがある。
近年の横浜流星が「 流浪の月 」「 線は、僕を描く 」の演技は本作に挑む為に、演技の高みへ自身を導く過程だったのではと思いたくなる。
藤井道人の演出手法で「ヤクザと家族 The Family 」では煙を効果的に画面切替で使っている。
本作の場合は山間部の霧や靄。
煙草の煙。
煙の元には火がある演出。
「 余命10年 」では陽の光の幸福感。
感情の変化に合せて、火と陽が効果的に演出されてる。
そして「 能 」
「 能 」は象徴的に。
演目の「 邯鄲(かんたん)」は主旨として使われ描かれてるのみに感じられる。
実は、作品そのものが「 能 」を持って完成させている。
何故なら主要キャストの表情は「 面(おもて)」そのもので、能の演技でシテ(主演)やワキ(相手)やツレ(助演)が行う技術として1つの「 面 」の角度のみで喜怒哀楽を表現する。
その「 面 」の表現演出をキャストに演じさせている。
それゆえに、能の基本的な構成が、全体の骨子になっている。
能とは歌舞伎や宝塚の様に“物語”を演じるのではない。
能舞台とは?
「 本舞台 」正面舞台で演者が舞う場所。
左手に演者が登場する道「 橋掛り 」を渡ってくる。
橋掛りの客席側に3本の松がある。
そして、橋掛りの起点に「 揚幕 」があり、奥が「 鏡の間 」となっている。
- 本舞台は現世
- 橋掛りは三途の川に架かる橋
- 鏡の間は黄泉
能とは過去の出来事を忘れず継承し警鐘する為に、黄泉の世界から当事者が橋掛りを渡り現世に顕現し、出来事を語る舞台。
何が骨子なのか?
寒村の霞門村に入る、村の門を通過する一本道は「 橋掛り 」だと考えられる。
霞門村内を「 本舞台 」と考えるか?
「 鏡の間 」と捉えるか?
霞門村外(≒東京)を「 本舞台 」と捉えるか?
「 鏡の間 」と考えるか?
一本道は村と別の場所を繋げている。
火に照らされた道を往くか?
陽に照らされた道を行くか?
道は続いている。
まとめ
村社会の歪。
権力層は貧困層に労働を与えることで支配し、被支配者は同調することで安穏とする集団になる。
だが、人間の心の歪みは安穏だけで満足出来ず、自身よりも下位層と蔑む対象を生み出し、支配層は把握し利用する。
村社会に起こる村八分は村だけに起きうるのだろうか?
否
現代社会で蔓延している社会疾病の縮図に他ならない。
本作は警鐘している。
真っ当に対峙する魂の継承を求めて。