「 フラガール 」(2006)や「 流浪の月 」(2022)などで知られる李相日が、「 悪人 」(2010)「 怒り 」(2016)に続いて吉田修一の小説を映画化した作品。
極道の息子として生まれた喜久雄が、歌舞伎俳優として修羅の道を歩む姿を描く物語は、映画史上屈指の「 美 」に溢れた傑作となっている。
国宝

あらすじ
後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。
この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、
上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。
正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。
ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく…。
誰も見たことのない禁断の「歌舞伎」の世界。
血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。
もがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。
何のために芸の世界にしがみつき、激動の時代を生きながら、世界でただ一人の存在“国宝”へと駆けあがるのか?
圧巻のクライマックスが、観る者全ての魂を震わせる―― 。
(公式サイトより引用)
公開日
2025年6月6日
上映時間
175分
予告編
キャスト
- 李相日(監督)
- 吉沢亮
- 横浜流星
- 高畑充希
- 寺島しのぶ
- 森七菜
- 三浦貴大
- 見上愛
- 黒川想矢
- 越山敬達
- 永瀬正敏
- 嶋田久作
- 宮澤エマ
- 中村鴈治郎
- 田中泯
- 渡辺謙
公式サイト
欠点はダイジェスト的なストーリー

2025年の日本映画を代表する1本になるであろう傑作が誕生した。
見過ごせない欠点もあり、完璧とは言いにくいのだが、美点があまりにも大きすぎて、それが欠点をはるかに凌駕する作品となっている。
先に欠点から述べよう。
原作は文庫本にして800ページを超える長編なので、174分の長尺をもってしても、ストーリー面ではダイジェスト感が否めないのだ。
「 歌舞伎の舞台シーンの合間にドラマが挟まっている 」ような印象で、もちろん実際にはそんなことはないのだが、全体の80%くらいが舞台シーンだったような気さえする。
これはやはり原作をきちんと読むべきだと、映画を見終えてすぐに本屋に駆け込み、原作の上下巻を買ってきた。
だが実は原作を全く読んでいないわけではなく、尾上菊之助が語りを務めるAudibleを途中まで聞いている。
時間がなくて、文庫本で言うと120ページあたりまでしか聞いていなかったのだが、それでもページ数で言えば全体の7分の1にあたる量だ。
にもかかわらず、その120ページ分は、映画で言えば15分もしないうちに終わってしまう。
そのあたりまでは準主役のような徳次というキャラは、映画では何のためにいるのかよく分からない存在となっている。
親の仇討ちに失敗し、それによって長崎にいられなくなり大阪に向かうくだりは、あの描写で何が起きたのか観客に理解できるのかと首を傾げるほどだ。
そこまで見れば、あとは推して知るべし。
まだ読んで(聞いて)いなかった部分にも「 どうしてそうなった? 」「 この人誰? 」「 突然そこで話が飛ぶの? 」というような描写が随所に見られる。
脚本は奥寺佐渡子だが、彼女ほどの名手が、ここまで拙い脚本を書くとは考えにくい。
おそらくはもう少し丁寧に書き込まれていた描写が、長くなりすぎるという理由で、撮影前か編集段階で大幅にカットされてしまったのではないかと思う。
歌舞伎の舞台シーンの筆舌に尽くしがたい美しさ
ではよい点は何か?
言うまでもない。通常のドラマ部分を犠牲にしてでも映画の中心に据えた歌舞伎の舞台シーンの見事さだ。
フランスからソフィアン・エル・ファニを招いて作り上げた映像は、どれほど言葉を尽くしても足りないほど美しい。
まさしく美の奔流。
美学的な側面に関して言えば、どうしても比較を避けられない「 さらば、わが愛 覇王別姫 」(1993)を全く寄せ付けない出来と言っていい。
近年の李相日は、「 怒り 」にせよ「 流浪の月 」にせよ、「 映像美は素晴らしいが、ストーリーテリングが今一つでテーマが伝わりにくい 」という作品が続いていた。
本作も、映像美優先であることに変わりはないのだが、それを徹底的に突きつめることで、ここまでの高みに達したのだから立派なものだ。
李相日の最高傑作であることは疑いようもない。
舞台シーンに込められた情念が物語の核
しかもその美しさには情念が伴っている。
歌舞伎の舞台や舞台上で起こる出来事は、当然のことながら、登場人物の思いや生き様と密接に関わっていて、舞台シーン以外のドラマがダイジェストであっても、舞台シーンから溢れ出す情念の渦が、論理的なストーリーを超えて見る者の心を揺さぶる。
なかでも2度目の「 曽根崎心中 」は壮絶の極み。
そんな感情の渦に加え、圧倒的な美学で観客の視覚と聴覚を支配する。
これこそ映画のスペクタクルだ。
このようなスペクタクルをシネスコの大画面で見られることの至福。
3時間近くあるが、せめて5時間くらい見ていたいと思うほどの陶酔感。
今どきこんな映画を千数百円で見られることの何という贅沢さよ。
実際の歌舞伎の値段を考えれば、映画という芸術が、今なお貧乏人の味方であることを痛感する。
映画の作りとしては、舞台以外のドラマを中心に据え、舞台シーンの方をダイジェスト的に挿入する形もありえたはずだ。
というよりも、「 残菊物語 」(1939)や「 天井桟敷の人々 」(1945)の昔から、舞台ものの大部分はその作りだ。
しかし当初からその予定だったのか、実際に撮影してみて方針を変更したのか分からないが、本作は舞台シーンをメインとした構成になっている。
それが最初に述べたような欠点に繋がっているのも確かだが、この圧巻としか言いようがない舞台シーンを見れば、そうせずにはいられなかったのも十分に納得できる。
また、そのような作りが、本作を他の舞台ものと分かつ大きな特徴にもなっている。
決して王道的な作劇ではないが、この作品ではその大胆な手法が見事に成功している。