アカデミー賞8部門を獲得したオードリー・ヘップバーンの代表作。
しかし今見ると非常に複雑な思いを抱かせる内容。その問題点に迫る。
マイ・フェア・レディ
あらすじ
言語学者のヒギンズは、貧しい花売り娘のイライザのひどい訛を観察していた。そんな中、友人と賭けをしたヘンリーは、イライザを半年で社交界最高のレディに仕立てようとする。
映画ナタリー「 マイ・フェア・レディ 」より引用
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公開日
1964年12月1日
原題
My Fair Lady
上映時間
173分
キャスト
- ジョージ・キューカー(監督)
- オードリー・ヘプバーン
- レックス・ハリソン
- スタンリー・ホロウェイ
- ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
- グラディス・クーパー
- ジェレミー・ブレット
- セオドア・バイケル
アカデミー賞8部門に輝く古典的ミュージカル
本作はバーナード・ショーの舞台劇「 ピグマリオン 」が原作。
さらに正確にいえば、元々ストレートプレイであった「 ピグマリオン 」が、1956年に「 マイ・フェア・レディ 」のタイトルでブロードウェイミュージカル化され、それを映画化したものだ。
第37回アカデミー賞で作品賞を含む8部門の賞を獲得。
「 ローマの休日 」(1953年)と並ぶオードリー・ヘップバーンの代表作として知られ、興行的にも大ヒットを記録した作品だ。
今でもしばしば舞台劇が上演されるし、1990年には設定を現代に置き換えた「 プリティ・ウーマン 」が全米の年間興行成績第1位の大ヒットになるなど、その影響力は絶大なものがある。
しかし筆者は、はるか大昔にテレビで大幅にカットされた吹替版(声優 池田昌子+中村正)を見たことがあるのみ。
今回午前十時の映画祭で見るのが、事実上の初見と言っていい。
4Kレストアはビックリするほど綺麗だが、この2020年代にきちんと向き合うと、内容的に極めて複雑な思いを抱かせる作品だった。
60年も前の映画なので、ネタバレ全開で、その問題点について考えてみたい。
ミソジニーの塊ヒギンズ教授
言語学者のヒギンズ教授(レックス・ハリソン)は、下町生まれで粗野な言葉使いしかできない花売り娘のイライザ(オードリー・ヘップバーン)をレディに仕立て上げられるかどうか、
友人のピカリング大佐(ウィルフリッド・ハイド=ホワイト)と賭けをする。
ヒギンズはイライザの教育に励み、イライザをレディとして教育することに成功するが、いつの間にかイライザに心を惹かれ…という物語だ。
本作は大まかに4つのパートに分かれている。
第1部は、イライザがヒギンズ教授のもとで、コックニー訛りの矯正に挑む部分。
ここは予想した通りというか、予想した以上に噴飯ものだった。
ヒギンズは、どこまでも上から目線で下町文化を見下している。
自分と地位が同等の者には敬意を払うが、下位の者の心など省みようともしない(そもそも心があると思っていないのかも)。
しかも男尊女卑の徹底したミソジニー。
現代の価値観で、この男に共感を覚える者は数少ないだろう。
舞台は100年ほど前のロンドンだが、そこまでさかのぼらずとも、昭和の頃には、まだこれに近い男が当たり前にいたこともあり、あれこれ思い出して胸が悪くなった。
とはいえ、彼の姿勢には他の脇役からも疑念が発せられる。
作劇としては、ヒギンズの価値観が今後どのように揺らぎ、変化していくかがポイントとなるはずなので、我慢して見続ける。
第2部は、競馬場のシーンを頂点とした「 イライザの素性がバレるかバレないか 」が中心のコメディサスペンス的な展開。
ここではヒギンズの性格問題も背景に引っ込むため、エンタメとして特に問題なく楽しめる。
「 本来の自分 」とは何かを考えさせられる部分も
第3部は舞踏会をクライマックスに、イライザがレディとして成功する部分。
筆者が圧倒的に興味深かったのは、このパートだ。
本来の姿とは違う、レディとしてのイライザにさまざまな人々が惚れ込む様子を見ているうちに、「 言葉とは何なのか 」「 本来の自分とは何なのか 」といったことを考え出して止まらなくなったからだ。
なるほど多くの人が魅了され、恋をしたイライザは、ヒギンズが作りだした「 虚像 」かもしれない。
しかし彼女は特に偽りの経歴などを述べたわけではなく、話し方やマナーを覚え、以前とは違う振る舞いをしただけとも言える。
だからそれを単純に「 虚像 」だと否定したら、学習や人生経験による成長・変化は認められないことになってしまう。
だとすれば人間の実像、「 本来の自分 」とは一体何なんだ?と考えざるをえない。
元々が舞台劇で演劇的な作りが目立つせいもあって、奇妙なことを考えた。
要するにこのイライザとは「 俳優 」そのものではないのか?
俳優には「 2つの自分 」がいる。
1つは日常生活時の「 演技をしていない自分 」、もう1つは、日常とは違う言葉(セリフ)を話し、特定の立ち居振る舞いをする「 演技をしている自分 」だ。
その点はイライザも全く同じだ。
ではレディの振る舞いをするイライザに恋をする男は、舞台上の女優に恋をする男と同じなのだろうか?
しかしレディの振る舞いをしていても、イライザはイライザだ。
実際イライザに恋するハリー(ジョン・マクライアム)は、彼女が生まれた街を訪れても、特に心変わりした気配はない。
演技をしていてもイライザがイライザであることに変わりないのであれば、舞台上の演技を見て、その女優の日常を知らぬまま恋するのもありなのか?
そもそも我々は誰でもTPOに応じて何らかの演技はしているもの。
だとすれば「 虚像 」と「 実像 」の境界線は一体どこに存在するのか?
レディの振る舞いをするイライザも、舞台上で演技をする俳優も、今そこに実在するものがその人自身。
どれも1人の人間が見せる違った顔であり、演技をしていようがいまいが全ては地続き、「 虚像 」も「 実像 」もない同じ個人なのではないか?
…という具合に、いろいろな考えが延々と頭を駆け巡る。
「 そもそも言葉とは何ぞや? 」という点にまで考えが及ぶと、言語による世界認識の問題をテーマにしたSF「 メッセージ 」(2016年)と「 マイ・フェア・レディ 」が、脳内で同時平行で上映され始めるという状況。
これは滅多にないほど刺激的な体験だった。
悪しき価値観は温存されたまま
しかし結末となる第4部。
あれは…ない。
結局のところ、ヒギンズは自らの傲慢さを理解することなく終わる。
一方イライザは人間的に成長し、1人の人間としての自我を確立する。
しかしその対立構造は妙なロマンス的感情でうやむやなまま終わってしまう。
何しろそこまでの間に、二人が心を通い合わせ、自らの価値観や生き方を変えていく描写など皆無なので、このロマンスはハッピーエンドを導き出すための単なるご都合主義に過ぎない。
最後にイライザが戻ってくる動機が分からないし、全編の最後の台詞が「 スリッパはどこだ? 」では、これまでの男尊女卑な関係性がそのまま温存されているとしか思えず、まさしく噴飯もの。
一体今までの物語は何だったのかという感じだ。これは作劇として完全に破綻している。
調べてみると、案の定、バーナード・ショーの原作戯曲では、イライザはヒギンズの下を去ったまま終わりになるらしい。
それが舞台化されるにあたって、勝手に結末が変更されたとのこと。
…だろうと思ったよ!
今の時代にこの映画をどう見るべきなのか
…と、そんな具合にあれこれ考えさせられる刺激的な内容ではあったが、1本の映画としては作劇が完全に破綻していて、
ハッピーエンドを導き出すために悪しき価値観を温存ししてしまった、とんでもなく保守的な映画ということになる。
60年前はいざ知らず、この2020年代の価値観で見ると、到底受け入れられるものではない。
とはいえ、オードリー・ヘップバーンは可愛いし、レックス・ハリソンの嫌みさも演技としては秀逸だ。
そしてピカリング大佐役のウィルフリッド・ハイド=ホワイトが何気にいい味を出して、本作の良心を象徴するような役どころとなっている。
ミュージカルナンバーはもちろん良い。
モラルを一時封印すれば、あるいは「 現代には通じない昔話 」と割り切って見れば大いに楽しめる。
何とも複雑な思いが募る作品だ。