「 ディア・ハンター 」歴史的ベトナム戦争映画の思いがけない正体

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ベトナム戦争映画の先駆けであり、第51回アカデミー賞では作品賞を含む5部門を獲得。

1970年代のアメリカ映画を代表する作品の1つに数えられる「 ディア・ハンター 」

しかし何度見ても、この映画に微妙な違和感を覚えていた筆者は、最近のリバイバル上映でようやくその正体に気が付いた。

目次

ディア・ハンター

©The Deer Hunter

あらすじ

60年代末に徴兵された、同じ製鋼所で働くマイケル、ニック、スティーヴンら3人。壮行会を兼ねたスティーヴンの結婚式が開かれた翌日、男たちは鹿狩りを楽しむ。やがて、戦地ベトナムで再会した3人だったが、捕虜の彼らは命がけのゲームを強いられることに。

映画ナタリー「 ディア・ハンター(4Kデジタル修復版) 」より引用

公開日

1979年3月17日(日本初公開)

原題

The Deer Hunter

上映時間

184分

予告編

キャスト

  • マイケル・チミノ(監督)
  • ロバート・デ・ニーロ
  • ジョン・カザール
  • ジョン・サベージ
  • メリル・ストリープ
  • クリストファー・ウォーケン

公式サイト

ディア・ハンター

ベトナム戦争映画の先駆け

©The Deer Hunter

マイケル・チミノ監督の「 ディア・ハンター 」(1978年)は、1970年代後半から80年代にかけて次々と作られるベトナム戦争映画の先陣を切った作品だ。

それ以前にベトナム戦争を描いた映画がなかったわけではないが、大部分はドキュメンタリー。

劇映画の場合、「 グリーン・ベレー 」(1968年)のように好戦的なアクション映画が戦争初期に何本か作られたり、主人公がベトナム帰還兵だったりといった程度。

戦争が終わった後、ベトナム戦争を本格的に描いた映画は、本作が最初と言って過言ではない。

それ以前から製作が始まっていた「 地獄の黙示録 」は、度重なるトラブルによって本作に1年遅れる形で1979年に完成。

このあたりがベトナム戦争映画の最初のピーク。

1986年の「 プラトーン 」から87年の「 フルメタル・ジャケット 」「 グッドモーニング、ベトナム 」などを経て、

1989年の「 7月4日に生まれて 」「 カジュアリティーズ 」に至る80年代後半が第2のピークだろう。

それ以降もベトナム戦争を題材にした映画は作られているが、湾岸戦争やアフガニスタン紛争、イラク戦争など新たな戦争が勃発したせいもあってか、

当事者的なリアリティを持った映画は、少なくともアメリカでは、あまり作られなくなっている。

そんな歴史的マイルストーンの位置に立つ本作は、第51回アカデミー賞で、作品賞 / 監督賞 / 助演男優賞(クリストファー・ウォーケン)/ 音響賞 / 編集賞の5部門を獲得。

1979年度のキネマ旬報ベストテンでは第3位と、評価は文句なしだ。

主演のロバート・デ・ニーロにとっては「 タクシー・ドライバー 」や「 レイジング・ブル 」と並ぶ代表作であり、クリストファー・ウォーケンの大出世作でもある。

この映画を抜きに1970年代のアメリカ映画史を語る事はできない。

そのような歴史的な作品だが、筆者は初めて見たときから、この映画に何か消化しきれない違和感を抱き続けてきた。

4Kデジタル修復版でリバイバルされた本作を何十年ぶりかで見て、ようやく気付いたその違和感の正体について書いてみたい。

全ての鍵は「 マイケルのニックに対する恋心 」

21世紀になってからは、この4Kデジタル修復版が初めてだが、初公開の時から何度も見ている映画だ。

かつて何度も見たのは「 好きな映画で大きな魅力があったから 」だが、同時に「 何度見ても理解できない部分があったから 」でもある。

何十年ぶりかの鑑賞で、その問題にある程度決着がついた。

ズバリ「 何度見ても分からない部分は、物語が破綻していたり、ご都合主義だったりするから 」という元も子もない結論だ。

今見直せば、勢いだけの力業で押し切った強引なところが多く、決して出来のいい映画ではない。

ただ、かつては分からなかった部分に合理的な説明がついたところもある。本稿の主題はそちらだ。

最初に驚いたのは、ビリングの2番目がジョン・カザールであり、1枚看板で出る俳優はロバー・デニーロとカザールという「 ゴッドファーザー 」組の2人だけということ。

誰が見ても準主役のクリストファー・ウォーケンとメリル・ストリープは当時まだ無名だったため、その後に数人まとめた形でクレジットされている。

ちなみにこのときカザールとストリープは恋人同士で、撮影終了後間もなくカザールは肺癌でこの世を去るが、ストリープがその最期を看取っている。

これはどうしても書いておきたかった余談。

本編に入ってまず驚かされたのは、クリストファー・ウォーケンが実にピチピチしたかわいらしいイケメンであることだ。

クイーンのロジャー・テイラー(もちろん若い頃)によく似た感じで、西洋イケメンの1つの典型であることが、今になって分かる。

そんなウォーケンの男の色気を理解できるようになって、ようやく気付いたことがある。

この物語を読み解く最大の鍵は、「 マイケル(ロバート・デ・ニーロ)はニック(クリストファー・ウォーケン)に恋をしている 」という点だ。

まず、あの友人たちの中でも、マイケルはニックを別格的な存在とみなし「 狩りはお前とでなけりゃダメだ 」と言っている。

ヘテロセクシャルで純粋無垢だった少年(=筆者)は、それを「 男同士の深い友情 」だと思っていたが、ウォーケンの色気を理解できるようになると、この関係はそういうレベルではないと分かってくる。

実際スタン(ジョン・カザール)は「 女を紹介したのに何もしようとしない。何を考えているのか分からない。お前はホモか。 」とマイケルをなじっている。(ホモという言葉も久しぶりに聞く)

野郎同士の馬鹿騒ぎのように描かれているが、実は冗談でも何でもなく、まさしくその通りだということだ。

最大のミスリードはリンダの存在

そこで問題となるのがリンダ(メリル・ストリープ)だ。

若い頃のメリルは、何とまあ初々しくてかわいいことか…というのはどうしても書いておきたかった余談。

実は本作で最もよく分からなかった部分の1つが、マイケルの彼女に対する心理だ。

ここが実に巧みというか厄介なミスリードで、「 マイケルもリンダに思いを寄せているが、親友の恋人なので、その気持ちを表せないでいる 」という風にも読める。

というか、ほとんどの人がそう思っている。

かつての筆者もそうだった。

しかしその解釈を採ると、あちこちにぎこちない部分が多すぎる。

話を分かりやすくするため、作品の構成をこう分けよう。

  • 第1幕=マイケルたちがベトナムへ行く前
  • 第2幕=ベトナムでの地獄体験
  • 第3幕=マイケルがベトナムから帰還した後
  • 第4幕=マイケルが再びベトナムへ

< エピローグ >

第1幕で、ニックと踊るリンダを見つめるマイケルと、それを意識したリンダの視線が交錯する。

この描写は「 マイケルもリンダに思いを寄せている 」という一般的解釈にそのまま当てはまるように見える。

だがそうではなく「 〈愛するニック〉がリンダと踊っているのを、表面的にはにこやかに、内面では複雑な思いで見つめるマイケル 」とも見える。

一方のリンダは、「 マイケルの思いがニックにあることを知らず、自分に気があると思っていて、彼女もマイケルを憎からず思っているので複雑な気持ちでつい目をやってしまう 」とも取れるし、

「 薄々ながらマイケルの真意を見抜いている 」ようにも受け取れる。

リンダの写真は心理学で言う「 同一視 」

特に大きなミスリードがあるのは第2幕。

ベトナムに送られたニックとマイケルが、全く同じリンダの写真を財布に入れている描写だ。

これを見れば、「 マイケルも密かにリンダに思いを寄せている 」と誰でも考えることだろう。

しかし全体の流れでみると、これは心理学で言うところの、マイケルのニックに対する「 同一視 」ではないのか。

つまりニックがその写真を持っているのを知っているマイケルが、「 全く同じ写真を全く同じように財布に入れる 」ことで、自分とニックを重ね合わせようとする愛の行為ということだ。

例えば自分が好きな相手(あるいはアイドルなどでもいい)が愛用しているもの、読んでいる本、聞いている音楽などを、自分も同じように体験して、

相手に近付こうとする行為は、ほとんど誰でもやったことがあるのではなかろうか。

それと同じことだ。

性愛に興味がないマイケル

そして第3幕。

ここでベトナムから帰還したマイケルとリンダが結ばれたように見えるのだが、以前からこの心理プロセスがよく理解できなかったし、不自然な描写も多い。

そこで上記の仮説を基に考えてみよう。

するとマイケルがリンダに近づくのは、愛するニックとの精神的な繋がりを求めてのことだと理解できる。

マイケルの方は、実はそれ以上のものを求めていないのだが、むしろリンダの方がマイケルに対して積極的になる。

リンダも、ニックを失った心の穴を、同じ喪失感を抱えたマイケルで埋めようとするわけで、心理的には似ているが、彼女の場合そこに男女の性愛が入ってくる。

マイケルはそこに興味がないのが大きな違いだ。

だから最初に2人がベッドに入るときも、リンダが無理矢理押しかけてという形だ。

しかもこのとき、シャワーを浴びてやる気満々のリンダに対し、マイケルは制服を着たまま寝ている。

このとき2人は結ばれなかったと見る方が自然だ。

2人のベッドシーンは2回あり、もう一度は最初こそリンダが積極的だが、マイケルもそれに穏やかに(あくまでも穏やかに)応じる。

以前から思いを寄せていた女性とついに…という深い思いは伝わらないが、ともかく肉体的には結ばれたようで、ここまでの仮説は深読みしすぎだったのか? と思う。

しかし…だ。

そのすぐ後、マイケルは寝ているリンダを残し、公衆電話から病院のスティーヴン(ジョン・サベージ)に電話をかける。

以前に一度かけようとしてためらったのに、なぜよりによってこのタイミングで電話をかける?

私には「 情にほだされて心ならずも女を抱いてしまったが、その穢れを洗い流すため、ニックを知るもう1人の戦友(男)に電話をせずにはいられなかった 」という風に見えた。

文字通りの意味だったI love you.

そして陥落寸前のサイゴンに戻る第4幕。

ここでのマイケルの行動は狂気に満ちたもので、何度見てもニックのためにそこまで無茶な行動を取れる心理がよく理解できなかった。

今見直せば、無理矢理な設定や、話をドラマチックにするためのご都合主義は明らかで、理解できないのも当然だと思う。

しかし理解できた部分もある。

ここでのマイケルの行動は、単なる友情に基づくものではない。

それは文字通り「 命懸けの愛 」だ。

ここでニックのために死んでもいいくらいに思っているのであれば、あの狂気も少しは理解できる。

マイケルの行動に「 リンダのために生きて帰りたい 」という思いなど微塵も感じられない。

リンダに、友人としての思いや同じ男を愛した者同士の連帯感こそ抱いていても、男女の深い愛などないのだから当然だ。

そしてクライマックスのロシアンルーレット。

そんなことをやってもニックを救えないことは明らかであり、これは既に書いたように「 話をドラマチックにするためのご都合主義 」そのものだ。

しかしこれを「 心中 」に近い愛の行為として見ればどうだろう?

マイケルとニックが、互いを唯一無二の存在として意識した最大の場が、かつてベトコンに強要されたロシアンルーレットであることは疑いない。

その場面が再現されるのだ。

マイケルは、もちろんニックを救いたいとは思っていたが、自分とニックがこの世界で最も近しい関係となったあの瞬間を再び味わえるという陶酔、

エロスとタナトスの合体したエクスタシーに抗しきれなかったのではないだろうか。

そしてマイケルが引き金を引くときニックに言う言葉は何と…「 I love you. 」だ。

映画全編を見渡しても、この率直な愛のフレーズは他に一度たりとも使われていない。

マイケルとリンダ、ニックとリンダ、誰も使っていない。

少年時代に見たときは「 アメリカ人って、こういうとき男同士でもI love you.って言うんだ 」と感心した記憶があるが、いや違う。

それは本当にそのまま、文字通りの意味だ。

クライマックスのどさくさ紛れに、物語の一番核心となる台詞を持ち出してきたのだ。

マイケルとリンダの交わらぬ視線

そしてエピローグ。

ここでもまたマイケルとリンダの意味深な視線が長く描かれるが、フォークなどを落としそうになったときに交錯した視線は、その後全く交わることがない。

マイケルがリンダを見るときはリンダが目をそらしていて、リンダがマイケルを見るときマイケルは別のところを見ている。

通常なら、ここは互いに視線を合わせ、友の死の悲しみについて無言で言葉を交わすものではないのか。

つまりここでもマイケルとリンダは本当に心が通い合っているわけではないということだ。

なぜ通い合っていないのかは、ここまで書いてきたことを読めば明らかだろう。

この2人は、どこまで行っても同床異夢なのだ。

カミングアウト不可能だった時代と場所

そもそもなぜそんなにややこしい、ミスリードを招くような作劇なのかといえば、この作品がオープニングから匂い立つように分かる「 アメリカの田舎町の物語 」だからだ。

今はラストベルトの1つとなっているペンシルベニアの鉄工町。

ロシア正教が少なからぬ影響力を持っていることも分かる。

南部ほど保守的ではないかもしれないが、それでもニューヨークやサンフランシスコなどと一緒に考えてはいけない。

時代は1970年代はじめ。

ヒッピームーブメントもクソもない田舎町では、自分がゲイであるというカミングアウトなど、口が裂けてもできなかったことは想像に難くない。

それはこの映画自体も同じだ。

まだ「 地獄の黙示録 」も完成していない1978年。

ただでさえ論議を呼ぶこと必至の内容なのに、さらに主人公のゲイ設定を明確にすれば大変な騒ぎになり、興行的にも大きなリスクが出る。

そこで「 男同士の強い友情と、残された女の愛の物語 」という古典的な物語のようにも読める(ほとんどの人はそう読んだ)ミスリード設定を用意したのだろう。

ところが、そのミスリードと本音の部分がうまく昇華されぬまま混在し、その問題を抜きにしても数多くの破綻がある脚本のせいで、

いろいろとぎこちなく謎の多い作品に仕上がったのが、この「 ディア・ハンター 」というわけだ。

かつて本多勝一が鋭く批判していたベトナム人蔑視や、ご都合主義展開の問題など、まだいろいろ書きたいことはあるが、本稿はここまでにしておく。

執筆者

文・ライター:ぼのぼの

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