「 バッドランズ 」レビュー、最後のアメリカン・ニュー・シネマ

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「 天国の日々 」「 シン・レッド・ライン 」などで知られる孤高の天才テレンス・マリック。

そのデビュー作が、実に52年の時を経て、日本で劇場公開された。

その後のアメリカ映画にも大きな影響を与えた「 最後のアメリカン・ニュー・シネマ 」とは一体どんな映画だったのか?

目次

バッドランズ

©Badlands

あらすじ

1959年、サウスダコタ州の小さな町。15才のホリー(シシー・スペイセク)は、学校ではあまり目立たないが、バトントワリングが得意な女の子。ある日、ゴミ収集作業員の青年キット(マーティン・シーン)と出会い、恋に落ちるが、交際を許さないホリーの父(ウォーレン・オーツ)をキットが射殺した日から、ふたりの逃避行が始まった。ある時はツリーハウスで気ままに暮らし、またある時は大邸宅に押し入り、魔法の杖のように銃を振るっては次々と人を殺していくキットの姿を、ホリーはただ見つめていた―。
(公式サイトより引用)

原題

Badlands

公開日

2025年3月7日

上映時間

94分

予告編

キャスト

  • テレンス・マリック(監督)
  • マーティン・シーン
  • シシー・スペイセク
  • ウォーレン・オーツ
  • ラモン・ビエリ
  • アラン・ビント

公式サイト

バッドランズ

テレンス・マリック幻のデビュー作が劇場初公開

孤高の天才映画作家テレンス・マリック、1973年のデビュー作。

当時、日本では劇場未公開に終わったが、テレビでは「 地獄の逃避行 」というタイトルで放送され、その後ソフト化もされている。

筆者も初めて本作を見たのは、1990年代、WOWOWでの放送によってだった。

そこで震えるような感動を覚え、テレンス・マリックの熱烈なファンとなり、その後発売された本作のDVDやBlu-rayも購入した。

しかしそれは全てテレビモニター上での観賞体験に過ぎない。

本作を劇場のスクリーンで見るという夢はなかなか叶わなかった。

「 シン・レッド・ライン 」(1998)が公開され、好評を博した後の2000年代に、ケーブルホーグという配給会社が日本での配給権を獲得したという噂を耳にした。

しかし公開は実現されないまま、ケーブルホーグ自体が消滅してしまった。

もはや「 バッドランズ 」を劇場で見る機会は永遠にないだろうと思っていた。

ところが製作から52年も経った2025年、どういう経緯によるものか分からないが、「 地獄の逃避行 」から原題の「 バッドランズ 」に戻す形で、突然の日本公開が実現した。

テレンス・マリックの新作が公開されるわけではないし、大々的なレトロスペクティヴの一環というわけでもない。

本作に続くような形でマリックの2作目「 天国の日々 」(1978)が公開されるが、配給会社が違うので、直接的な関係はなさそうだ。

なぜこんな奇跡が起きたのかは、また別の機会に探ってみたいと思う。

今は、この作品の内容について考えてみたい。

なぜこの作品は「 最後のアメリカン・ニュー・シネマ 」なのか

長い間筆者は、本作を「 最後のアメリカン・ニュー・シネマ 」と呼んできた。

実際にはこの作品のあとにも、初期のマーティン・スコセッシ作品をはじめ、アメリカン・ニュー・シネマと呼びうる作品は少なからず作られている。

しかし本作に、あえてそのような呼称を与えたくなるのは、「 俺たちに明日はない 」(1967)「 イージー★ライダー 」(1969)「 明日に向って撃て! 」(1969)など、

多くのアメリカン・ニュー・シネマに見られた「 アウトローのロマンティシズムやかっこよさ 」「 敗北の美学 」のようなものをバッサリと切り捨てているからだ。

主人公のキット(マーティン・シーン)は、無意味なほどあっさりと人を殺す。

その行為に対する反省はおろか、感情が大きく動いたような素振りさえ見せない。

一種のサイコパスと言っていいだろう。

ただし「 羊たちの沈黙 」(1991)のヒットを契機に量産されるようになったサイコサスペンス映画的な味わいは皆無だ。

それらとは作品の方向性が全く違う。

キットはしばしば「 ジェームズ・ディーンに似ている 」と言われ、1950年代の青春のアイコンだったディーンの姿が重ねられる。

銃を両肩に抱えた姿は、「 ジャイアンツ 」(1956)からの引用だ。

しかしキットの「 理由なき反抗 」は、安易な共感やロマンティシズムの対象となるものではない。

つまりテレンス・マリックは、このようなモラルに反する反逆行為の向こうにあるものは、単なる虚無でしかないことを示唆したのだ。

ほとんどのアメリカン・ニュー・シネマ作品に流れていた「 アウトローの美学 」を否定し、「 この先には何もない 」という深淵を描いた。

それが本作を「 最後のアメリカン・ニュー・シネマ 」と呼びたくなる理由だ。

肝心なのは、マリックが、そのようなキットの行いを上から断罪しているわけではないということだ。

断罪するわけではなく、共感を寄せるわけでもなく、冷徹に突き放すわけでもなく、まるで自然の営みを眺めるかのごとく、余計な感情を排して「 観照 」しているようだ。

その視点は、戦争という巨大な殺戮行為すら、大いなる自然のサイクルに飲み込まれていくものとして描いた「 シン・レッド・ライン 」に通じるものだ。

このような「 観照 」の視点も、他のアメリカン・ニュー・シネマとは一線を画する。

テレンス・マリックの映画は「 失楽園 」の物語

しかしストーリー上は「 理由なき反抗 」(この作品の場合は「 理由なき犯行 」か?)であっても、その裏にはもう少し深いテーマが流れている。

テレンス・マリックの映画には、常にキリスト教的なモチーフが色濃く流れている。

そして彼のほとんどの作品(少なくとも「 ツリー・オブ・ライフ 」(2011)まで)の根幹にあるものは、「 失楽園 」の物語だと言っていい。

この映画を失楽園の物語という視点で読み解いたとき、キットとホリーがアダムとイヴであることは言うまでもない。

しかし映画が始まった時点で、既に彼らは地上での恵まれぬ人生の中にいる。

そこから脱出したいと願っていた彼らは、キットがホリーの父親を殺してしまったことをきっかけに、2人だけの楽園へと向かう。

キットが父親を殺す過程は実に馬鹿げたもので、共感の余地はない。

しかし彼らにとって、この時点で父親は「 自分たちをこの恵まれぬ世界に縛りつけている存在 」であったことは理解できる。

ホリーの目には、母親が死んで以降、父親は魂の抜け殻のような存在であり、来たるべき死を待ち望む人間に見えていたのかもしれない。

だからこそ、父の死をあまり嘆くことはなく、彼を殺したキットを責めることもなく、これまでの自分を棄てて、新しい人生へと歩み出していく。

この物語で一番の「 楽園 」と言えるのは、逃避行の初期における森の中での生活だ。

そんな生活が永遠に続くはずもないことは、彼ら自身にも分かっていただろうが、他に誰もいない森の中で二人きり、魚を獲ったり本を読んだりしながら過ごす時間は、彼らにとって極めて幸福なものだっただろう。

しかしそれは父親の殺害という大罪の上に成り立った「 偽りの楽園 」に過ぎない。

キットは当たり前のようにリンゴをかじっている。

リンゴをかじったアダムとイヴは、当然のごとく楽園を追われることになる。

神はなぜ沈黙を続けるのか

その後のキットの犯行は、さらに馬鹿げた、人の命を命とも思わぬものとなる。

ただしそれは殺人に喜びを覚えるといった類のものではない。

彼の無謀な行動をどう受け取るか解釈は分かれるだろうが、筆者には、全てが「 神の沈黙 」に対する抗議のように感じられた。

「 なぜ自分たちはこうも不幸に人生を送らねばならないのか?

この世に神が存在するなら、なぜこんな空虚な世界を作り上げたのか?

もし神が存在しないなら、殺人を含め、どんなことも許されるのではないか 」

…そんな「 罪と罰 」のラスコーリニコフ的な考え方を、思想ではなく直感によって実行に移しているかのようだ。

人間が生きていくのには適さないが、人間的尺度を超えた美しさに満ちた荒野(バッドランズ)で、沈む夕日を見つめるキットの姿は、彼なりの形で神と対話しているかのように見えた。

キットは多くの犯行を重ねるが、そこに喜びを見出している気配は感じられない。

むしろ、いくら人を殺し、いくらうんざりする社会から逃げても、結局その先に何もないことを悟り、あえて逃亡に終止符を打つ。

逃亡を終えた地点に石を積み上げるキット。

そんなものがすぐに消えてしまうことは彼にも分かっていただろうが、この果てしない荒野にあえて無意味な印を残すことが、彼の最後の反抗、神への抗議だったのかもしれない。

捕まったあと、警官や兵士たちに囲まれて、ある種のヒーロー扱いされているときも、心から浮かれているわけではなく、それまで誰にも省みられることのない人生を送ってきた自分が、このような形でちやほやされる滑稽さを、皮肉な目で楽しんでいるかのようだ。

人間の世界へ帰還する者と離脱する者

キットほど突き抜けて通常の人生から離れることができなかったホリーは、最後には通常の人生に戻っていく。

一方キットは、この世界を虚ろな目で見つめ、その無意味さを確認しながら、人間社会の掟に従って死刑となる。

ホリーが人間の世界だけを見つめていたのに対し、キットは、その先にあるもっと別の世界を見つめていた。

ホリーは「 キットの行く先には何もない 」と思い、キットは「 かつて自分たちがいた世界には何もない 」と思った。

そして2人は別々の道を行くことになる。

この映画は、狭く暗いホリーの部屋から始まり、静かな郊外の街を経て、バッドランズへと向かい、最後は空の上の雲海で終わる。

飛行機にはホリーもキットも乗っていたが、彼らの目に映った雲海と夕日は、 全く違う意味を持つものとして映っていたことだろう。

次作でさらなる成熟を見せるマリック

今見直しても、大きな魅力に満ちた作品であり、個人的には死ぬ前に見直したい映画の一つに数えている。

ただし、その後のマリック映画を見慣れた目で見ると、一般的な映画のストーリーテリングに則っている分、彼の思想や美学が少し窮屈そうに押し込められた感じもあるし、後の映画に繋がるテーマがゴロッと剥き出しのまま提示されている印象も受ける。

この点は、続く「 天国の日々 」で、より映画的・寓話的な形に昇華され、20年の時を経て復活した「 シン・レッド・ライン 」でさらなる高みへと上りつめることになる。

執筆者

文・ライター:望月正人

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